「新説邪馬台国の謎」殺人事件           荒巻 義雄 目 次  文庫版のための前書き  第一部 老画家の死   プロローグ   第一章 マの邪馬台国   第二章 魏志倭人伝   第三章 容疑者たち   第四章 倭国北岸狗邪韓国  第二部 邪馬台国いずこ   第五章 画商のアリバイ   第六章 始度一海千餘里   第七章 吉野ケ里   エピローグ  後書き——始度一海千餘里について  文庫版のための前書き  本書は、一九八九年七月、講談社のKODANSHA NOVELSで発行されたものの文庫版です。  ミステリーの体裁をとっておりますが、主眼はあくまで、邪馬台国の謎を解くために書かれた作品です。  吉野ケ里の発見で、邪馬台国を巡る千古の謎は、一歩前進したと思います。事の決着は、新たな考古学的発見でしか解決されぬと思いますが、とにかく人騒がせな『魏志倭人伝』です。  本書では、この『魏志倭人伝』について、従来説とは別の新しい解読法が試みられております。判定は、邪馬台国ファンの読者にお任せする他ありませんが、作者としては、内心ひそかに、作者の考えかたで八十パーセント以上は正しいのではないか——と自負しております。しかし、新書版発行の時は、あまり反響がなく、二、三のかたから共感のお手紙を戴いたにとどまり残念でした。が、ふたたび文庫版で世に問うことになりましたので、よろしくお願いいたします。  この新説のポイントは、 一、『魏志倭人伝』冒頭部にある�始度一海千餘里至對海(対馬)國�の�度�の読みかたですが、通説ではこれを、�渡る�と読みます。が、�度�をなぜわざわざ�渡る�と読むのだろうか。素直に�度《はか》る�(計測する)と読んでもいいのではないか。  つまり、�始度一海……�は、以下につづく倭国の諸国へ至る、里程換算を表す記述である。いわば一種の地図の縮尺と同じものであって、作者の算出した一倭里=七十五メートルを使えば、邪馬台国問題の距離の矛盾は、合理的に解決される。 二、『魏志倭人伝』の邪馬台国へ至る道程の読みかたには直線説と放射説があり、直線説は大和説に有利、放射説は九州説に有利とされている。  吉野ケ里の発見で、九州説が有利になっているのが現在の情況ですが、その放射説にしても、伊都国起点なのです。しかし、作者は末盧起点説としました。理由は本文中に書かれております。 三、邪馬台国につづく斯馬国以下の小国ですが、これらは、九州横断道に沿い並んでいたのではないか。宗国邪馬台国に服属していた小国群であり、その一つが吉野ケ里であると作者は考えました。  初版発行後、新たに遺跡が発見されたことからもこの考えは成り立ちます。一九八九年十月二十四日読売新聞朝刊に、福岡県一ノ口遺跡の発掘記事が大きく出ておりました。弥生時代のものです。位置は、吉野ケ里の北東約二十キロほどにある三沢付近です。二十キロといえば、古代交通の一日行程の距離でもあります。(なお、表紙および巻末邪馬台国之図は修正する必要がありそうです)  ——などなどです。  もとより作者は、先人の業績を踏まえつつ、これらを修正しながら、一番矛盾の少ない『魏志倭人伝』の読みかたを呈示したわけですが、とにかくご一読をいただければと思います。  一九九二年三月吉日 著 者 主な登場人物  荒尾十郎《あらおじゆうろう》   札幌在住の作家・美術評論家  酒田慧《さかたさとる》    千歳署刑事課刑事主任  岩都桂介《いわとけいすけ》   北門タイムス新聞の特別企画部記者  野々宮太郎《ののみやたろう》  邪馬台国に熱中する画家  野々宮|斐美香《ひみか》 野々宮の一人娘。ニューヨークに留学中  野々宮|数馬《かずま》  野々宮の弟。出版社経営  篠原洲子《しのはらしまこ》   野々宮の別れた妻。レストラン経営  北丸安国《きたまるやすくに》   画廊ギャルリー北丸経営者  安原令子《やすはられいこ》   野々宮の秘書  大森多津子《おおもりたづこ》  野々宮家の家政婦  大森|盛児《せいじ》   多津子の息子。野々宮の弟子 第一部 老画家の死  プロローグ     1  およそ邪馬台国《やまたいこく》とは縁もゆかりもない日本最北の地を起点として、この物語は始まる。事の発端は、昭和の御代《みよ》の終わった一月七日。従って、ご崩御の報道の陰に隠されたため、全国的なニュースにはならなかったが、北海道の千歳《ちとせ》空港に近い雪の原野で、一人の老画家の遺体が発見されたのである。  場所は国道三十六号線より早来《はやきた》のほうへ少し入った雑木林の中で、国道をはさんだ空港の反対側にある。  発見者は、早来に住む停年退職者のH氏で、最近、流行《はや》っている歩くスキーの愛好者である。彼は、その日も日課にしている歩くスキーに出掛け、偶然、仰《あお》むけになって横たわっている遺体を見付けたわけである。  不審な凍死者がいるとの報を受け、現場に赴《おもむ》いた千歳署刑事課の酒田慧《さかたさとる》刑事主任は、ほとんど直感的に、遺体の服装に不自然さを感じた。三十余年の経験で培《つちか》われた、職業的な勘がそう教えたものであろう。  たとえば、凍死者が履《は》いている靴であるが、防寒シューズではなく、ごく普通の短靴のようである。  北海道の人間であれば、まずこの時期は、ゴム底の滑らない靴を履いているはずである。 「内地の人でしょうか」  と、部下はいった。  遺体は、茶色の革コートを着けていたが、帽子や手袋はない。  ともあれ、例年であれば、遥かに積雪が多いはずのこの現場も、暖冬の今年は雪不足であった。普通の年であれば、深い雪にすっぽり覆《おお》い隠されて、少なくとも春までは、遺体の発見も困難であったはずなのだ。だが、ここ一日、二日の暖気で死体の上の雪が溶け、発見を容易にしたわけである。 (これは他殺の可能性もあり得るぞ)  酒田刑事は、すぐ部下に命じて、一帯の立ち入りを禁止するためのロープを張った。たとえそれが捜査の基本であったにしても、酒田の判断は適切であった。  やがて、鑑識も着く。現場の写真も丹念に撮り、用心しながら遺体に近付いた。  調べてわかったが、遺体は、死後、十日以上を経過しているらしい。また、後から解剖結果も報告されたが、行き倒れでも服毒自殺でもなく、紐《ひも》のようなもので扼殺《やくさつ》されていることが判明した。  やはり、酒田の直感が、ぴたり当たっていたのである。  雪原の状況は、表面が溶けて固まり、ザラメ状になっていた。注意してみると、微《かす》かな跡でしかないが、林の外からここまで死体を曳《ひ》きずったと思われる痕跡もある。積雪を踏んで歩いた足跡も残っており、それが、多分、犯人《ほし》のものであろう。  革コートの内ポケットを探ると、紙入れがあり、紙幣は抜き取られていたが、被害者《がいしや》自身のものと思われる名刺や銀行および給油カードなどがでてきた。  被害者の名は、野々宮太郎《ののみやたろう》という画家で、名刺の肩書きから独画協会《どくがきようかい》の会員とわかった。住所は、東京都杉並区|荻窪《おぎくぼ》*丁目である。  直ちに、千歳署には『老画家殺害および死体遺棄事件』捜査本部が設置され、捜査は開始された。     2  酒田刑事が札幌に住む高名な画家、国立登《くにたちのぼる》に会ったのは、その日の夜であった。名刺の住所に電話をしたところ先方は不在であったが、独画協会の事務所とは連絡が取れ、国立登が同じ会に所属していることがわかったからである。 「わざわざ、千歳までお越しをいただきましてすみません」  酒田は、小柄な銀髪の老画家に挨拶した。  会ってみると、テレビなどで何度も見た顔である。差し出された名刺を見ると、独画協会会員の肩書きの他にも、文化団体の役員など多くの肩書きを持つ文化人であることもわかった。 「実は、先生に、遺体の確認をしていただきたいと思いまして」 「わかりました。しかし、それにしても、いったいどういうことでしょうか。野々宮君とわたしは共に創立会員でありましてね、ずうっと親友の付き合いをしていたのですよ」  遺体を安置した地下室に案内して、確認を頼むと、老画家は、 「まちがいありません。野々宮君です」  と答えて、涙を浮かべた。  そのあと、捜査課長を交えて、いろいろと被害者について訊《き》く。  国立画伯は、 「……彼は、決して、人に恨まれるようなそんな人間じゃありません」  と話し、「これからも、画家としてもいい仕事をしたい。お互い、老人パワーで頑張ろうじゃないかと、去年の秋、東京の本展で会ったときも元気にしていたのですがね。まったく残念です」 「先生はその後は、野々宮さんには会っていないのですね」 「ええ……」  と、画伯はうなずき、「ああ、そういえば、今年も彼の年賀状を貰いましたよ」 「ほう、いつですか」  被害者の死亡時を確定する手掛かりにもなるので、酒田は手帳を取り出しながら訊く。 「元旦の配達……、いや二日でしたか。彼は毎年、暮れから正月にかけて、取材旅行にでるのですが、今年は紀伊半島でしたな」 「そう、野々宮さんの年賀状には?」 「いや、年賀状はいつも、ポストカード用の画用紙に、旅先でスケッチしたものを送ってくれるのですが、今年のは熊野神宮でしたから。わたしもずっと若いころでしたが、一度、描いたことがあるので、よく覚えているのですよ」 「なるほど」  絵描きの記憶力は、普通の人とはちがうものがあるのだろうと感心しながら、地図帳を持ってこさせてページをめくる。 「熊野神宮といいますと、和歌山県ですな」 「ええ。あそこには熊野神社は三つあるのですが、送ってくれたのは、本宮にまちがいありません」  となると、新宮市から三十キロほど山に入ったところである。  老画家は言葉をつづけて、 「彼は、取材用のキャンピング・カーを持っておりましてね、自分で運転もできるのです。車に画材用具一式を積んで、自由に車に寝泊まりしながら、日本の風景を描いて歩くのが好きでしてな、ですから今度はきっと熊野の山を描きにいったものでしょう」 「いや、先生、大変、参考になりました」  と、国立画伯を送りだし、酒田は直ちに課長と相談した。 「そうだな、念のために調べておこう」  と、課長もうなずく。  直ちに課員を千歳空港の駐車場へ赴《おもむ》かせる。電話の報告はほどなく入った。  またしても、酒田の勘が的中したのである。国立画伯の話に出た、被害者のキャンピング・カーが、千歳空港駐車場で発見されたのである。  酒田は駆け付けた。課員の報告では、この練馬ナンバーの車は、一月二日の朝から預けられているという。しかし、車を預けた者の人相風体までは係員の記憶にはない。何千台も入る大駐車場であるのだから、これはやむをえない。  車内を調べると、国立画伯の話したとおり、ベッドや炊事《すいじ》用具もそろったトヨタのキャンピング・カーであった。画材も豊富に積まれ、描きかけの油絵も数点|遺《のこ》されていた。  これらの絵は、写真を新宮署に送って照会したところ、有名な那智《なち》滝はじめすべて現地の有名な風景に符合するものであることがわかった。 (これでまちがいない)  と、酒田刑事は確信した。  彼は捜査会議でも、 「鑑識の報告では、死亡推定日時は、一月七日から数えて十日以上前といいますから、被害者は去年の暮れに、紀伊の新宮付近で殺害され、千歳まで運ばれたものでしょう」  と、報告し、捜査方針もその線で進めることになった。 (おそらく解決は早いだろう)  と、酒田は、その時点では考えていたのだ。  というのも、新宮署からの連絡で、野々宮画伯の黒いキャンピング・カーらしいものに給油をしたという、現地のガソリン・スタンドの証言が得られたからである。十二月二十九日の夜である。ガソリン代金は、野々宮画伯名義の日石給油カードで支払われ、また乗っていた人間の人相風体も、夜だったのではっきりはしないものの、まず野々宮画伯にまちがいない……。  さらに、東京の自宅に住み込んでいる家政婦の大森多津子《おおもりたづこ》とも連絡がつき、画伯が昨年十二月二十五日に自宅を出発し、大和の飛鳥《あすか》経由で新宮方面に向かったことが判明したのである。  となれば、殺害された野々宮画伯が、千歳までどういう手段で運ばれたかが問題になる。しかし、これは、千歳に住むものなら、ただちに見当がつく。 「陸送の線もあるが、おそらくフェリーを使ったと思われます」  と、酒田は捜査会議で報告した。  早速、苫小牧《とまこまい》の日本沿海フェリーに課員をやって調べたところ、一月二日朝五時三〇分に苫小牧に着く船に、該当する車が乗っていたことが判明したのだった。この便は、暮の三十一日二三時三〇分東京港発である。  となると、次ぎは、新宮から東京までの搬送方法だが、十二月三十日深夜二時二〇分に、新宮の南にある南紀勝浦港を出発し、翌三十一日一五時三〇分に東京に着く、日本高速フェリーの便があることがわかった。  酒田刑事は、ますます事件解決の間近いことを確信していた。  ところが、捜査はやがて大きな壁に突き当たったのである。     3  元号が平成に代わった一月二十一日、酒田刑事は札幌に出て、北門《ほくもん》タイムス社を訪ねた。発行部数百十万部を誇る、北海道の名門新聞社である。  優美な女性像の置かれた一階ロビーで待っていると、先日会った国立画伯と一緒に、若い男がエレベーターから現れた。 「紹介します。こちらが岩都桂介《いわとけいすけ》君です」  と、国立画伯はいった。  名刺を交換する。  相手の肩書きは、特企部というものであった。  昼が近かったので、近所の鮨屋《すしや》に入って話すことにする。  はじめは四方山《よもやま》話だった。岩都記者によると、この特企部というのは、今度、社長が代わり、新たに作られた部であるという。酒田も、社会部、政経部、文化部、運動部は知っていたが、特企部というのは聞いたこともない。 「わかりやすくいうと遊軍記者ですよ」  と、このがっちりした体付きの、背の高い青年はいった。「説明しますと、うちには前から編集委員といいまして、部長経験者が独自に企画を立て、取材して連載記事にするという制度があったのです。たとえば、新年から始まっている北方領土シリーズがそれですがね」 「ああ、一面のカラー写真入りの……。読ませてもらっておりますよ」  と、酒田はうなずいた。 「これを今度新しく組織化しなおしましてね、特別企画部というのができたわけです。どういう仕事かといいますと、いろんな問題を突っ込んで徹底取材し、分析し、問題提起をする……と、まあそんな仕事になるわけですが、ぼくはまだ社会部から移ったばかりで、まだ仕事らしい仕事をしていないのです」  年齢は三十少し前か。屈託のない明るい感じの好青年である。 「酒田さん……」  代わって、国立画伯がいう。「今も新しい部長と会って頼んできたのですが、あなたから聴いたことを、そちらの諒解《りようかい》もなしに記事にするようなことは決してしない、と約束させましたよ。武丘《たけおか》部長もね、今時、特種を抜いた抜かれたの時代じゃない、といっています。新しく聞くで新聞の時代はもう終わった。速報力はテレビにかないっこないわけですから。それで、北門タイムスでも、新聞のこれからのあり方を模索しはじめているわけですが、これからの新聞は内容の深さでテレビに対抗していかなければならない、と考えているようです。つまり、今、岩都君もいった特企部の狙いもそこにあるわけで……」 「よくわかりました」  酒田はその言葉を素直に信ずることにした。「捜査の妨害になることは、一切しないと約束してくださるなら、わたしも話しやすくなります」 「ええ、約束します、刑事さん。その代わり、めでたく事件が解決したときは、ひとつよろしくお願いします」 「ははッ、いいですよ」  酒田は、若い記者の笑顔につられるように笑った。息子のような年頃の彼に、好感を抱いたからでもあった。 「で、実はもうひとつ」  と、また国立画伯がつづけた。 「はあ、なんでしょう」 「この岩都さんの亡くなられたお父さんというのは、福岡選出の代議士さんでしてね、大臣までされたかたですよ」 「ほう、じゃ九州のかたでしたか。わたしはちがいますが、家内は九州の伊万里《いまり》ですがね」  といいながら、改まって酒田は岩都をみた。 「彼を信用されてかまわないもう一つの理由は、彼のお兄さんというのが、警察庁におられましてね」 「ほう……では」  この青年が、警察庁の長官官房審議官、岩都桜介《いわとおうすけ》の弟と知った、酒田の驚きは、ちょっとしたものだった。 「いやあ、よくわかりました。そういうご関係のかたなら、わたしとしても信用せざるを得ませんな。一つよろしくお願いします」  四角に畏《かしこ》まって、酒田は頭を下げた。 「いや、こちらこそ」  岩都桂介もぺこんと頭を下げた。  やがて、鮨が出てきた。ビールで乾杯し、 「それでは、用件に入らせてもらいますが、実は、老画家殺人事件は、あれから意外な展開になっているのですよ。実は、捜査の過程で、邪馬台国がでてきたのです」 「ええ、国立先生から聞きました」  と、岩都桂介。「それで、ぼくも多少はお役にたてるかと思って、刑事さんにお会いしているわけですが……」 「話が前後しますが、被害者はどうも邪馬台国を探しに紀伊方面にいったと、関係者はいっているのです。ところが、わたしどもとしては、どうも邪馬台国などといわれても、さっぱりでしてね。それで、教えてもらいたいと思いましてねえ」 「なるほどねえ。邪馬台国というのは、『三国志』の『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』にでてくる古代の国名なのですが……」  と、岩都桂介は、首をひねりながらいった。 「ええ、ま、わたしも、早速、本屋へいって、何冊か関係書籍を読ませてもらったが、なにせ、その方面はまるっきりの素人なもので、よくわからんのですよ」 「でしょうね。研究文献だけでも何百冊あるか。とにかく、江戸時代から問題にされていたのがこの邪馬台国の謎なのです」 「で、こうなった事情を話しますと」  と、酒田はつづける。「被害者の野々宮さんは、新宮市内の日石のガソリン・スタンドで、日石本社の全国共通カードを使い、キャンピング・カーに給油したわけですが、そのとき、掛かりの者が相手が絵描きらしいと知って話しかけたんだそうです。実はこの青年も絵が好きで、東京の小さな公募展にも絵を出品していたからだそうです。すると、野々宮さんは、『自分は邪馬台国を描きにこっちへきたばかりだ』と話していた、というのですな。で、青年はびっくりして、『この新宮には徐福《じよふく》の碑《ひ》というのはあるが、邪馬台国のことは聞いたことがない』と答えると、『いや、それがあるのだ』といって走り去ったそうです」 「興味深い話ですね」  と、岩都はいった。「そのとき顔はしっかり確認したのですか」 「いや、夜だったし、それに風邪でも引いたものか、マスクをしていたといいます。しかしですな、そのことを、住み込みの家政婦に問い合わせたところ、そのとおりだという。『先生は、昨年の暮二十五日に、キャンピング・カーで東京を発ち、邪馬台国探しに行った』と証言しております。他にも、野々宮さんの弟子や付き合いのある画商なども、みなそう話しているわけです」 「なるほど」  岩都桂介は、考え深い目で、腕を組んだ。 「さらに、国立先生もご存じのとおり、野々宮さんは奥さんはおりませんが、アメリカに一人娘の斐美香《ひみか》というお嬢さんがおられる。このかたが先日遺体の引き取りに来られたとき、やはり同じようなことを話しておりました」 「ふーん。しかし、その邪馬台国の件と殺人は、関係がないのではありませんか」  岩都が訊いた。 「ええ、そうです。被害者が新宮へ行った動機が邪馬台国らしいということはわかりました。しかし、殺人は、それとは無関係な強盗によるものだったのかもしれません」  酒田は、ちょっと言葉をとぎらせた。「ですが、どうもひっかかるのですな。自分にも、今のところはまだ、理由ははっきりしませんがね」 「ベテラン刑事さんの勘ですね、それは」 「ま、そうですな。第一、物取りならば、なぜ、わざわざ遺体を北海道まで運んだのか。まず、それがわかりません。紀伊からは、カー・フェリーを使ったことはほぼ確定しているのですが、その費用だけでも六万以上ですよ……」 「なるほど。こりゃ、おかしい話ですなあ」  国立画伯もいった。 「ぼくもです」  岩都もいった。「で、通りすがりの強盗でないとすると、なぜ殺されたかが問題ですね。ところで、所持金はどのくらい持っていたのですか」 「銀行口座を調べてわかりましたが、所持金は十万以内と思われますな」 「じゃ、ますます変だ。もし、物取りが犯行を隠すために、野々宮君の遺体を千歳まで運んだとするならば、ぜんぜん採算が合いませんなあ」  と、国立画伯。 「となると、やっぱり物取り以外の線ですか」  と、岩都は訊いた。 「ま、われわれはそう考えている。しかし、動機が皆目不明です。動機がわかれば、犯人《ほし》の目星もつくわけですがね」 「むろん、野々宮画伯の身辺はお調べになったのでしょうな」  と、国立画伯。 「むろんです。しかし、今のところは、まだ、これといった有力な手掛かりは、何もでてこないのですな……」 「刑事さん、わたしはこれでも若いときからのミステリー・ファンですが、その犯罪によって�だれが利益を得るか�とよくいうでしょう……?」 「いや、必ずしもそうとはかぎりませんな。怨恨《えんこん》という場合もあります」  酒田は言葉を濁す。 「復讐もあります」  と、岩都。「しかし、国立先生は、野々宮画伯の人柄からいっても、絶対、そういう線はあり得ないという……」 「ええ」  酒田は軽くうなずいたが、言葉をつづけて、「しかし、捜査に予断は禁物です。わたしなりに、これまでの経験からいいますが、人というのは案外、自分では気付かないうちに他人の恨みをかっている場合もありますからね」 「なるほど。たとえばジョン・レノンのように、有名人ですと、犯人のある種の思い込みから狙われるという場合もありますものね」  岩都は首を捻《ひね》った。 「現場に証拠は?」  国立画伯が訊いた。「なにもなかったのですか。捜査の基本は、�現場に訊け�でしょう」 「ええ、おっしゃるとおりです。現場は、林の中で、この時期めったに人の入るところではありません。ホシも、おそらくそれを考えて、運んできた遺体を遺棄したものでしょうな。が、たまたま、�歩くスキー�の愛好者がスキーで林の中を通ったので、遺体が発見された。ホシにとっちゃ、これは計算違いでしょうなあ。もしも、遺体が春まで見付からなかったら、われわれの捜査もかなり難航していたにちがいありません」 「ということは、遺体が予定より早く発見されて、犯人側は慌《あわ》てているはずですね」 「それはあり得ますな」  酒田は、岩都桂介を見直す目をした。 「仮に、野々宮君の身辺に犯人がいるとすれば、なにか変わった動きがあるわけですから、刑事さん、わたしも注意して、何かそれらしい噂《うわさ》なりがあったら、すぐお知らせしますよ」  と、国立画伯。「来週早々にも上京する予定がありますから。銀座で今年も個展をやるので、その打ち合わせがあるのです」 「ぜひ、お願いします。しかし、捜査の邪魔にならないように慎重に……」 「ええ、わかっています。ははッ、亀の甲より歳の功《こう》なんていいますからな」 「ところで……、わたしは毎日、現場に通っていますが、数日前の暖気のとき雪が少し溶けましてね、昨日、こんなものを……。先生に見ていただきたいと思いまして」  酒田は取り出した手帳のページをめくり、間にはさんであった紙片を見せる。 「レシートですな」 「ええ。雑木林へ入る小道のところで、これを見付けました。想像ですが、犯人が、車からだした遺体を引きずって運んだときに、遺体のポケットから落ちたものじゃないかと思います」  国立画伯は懐《ふところ》から眼鏡ケースを取り出した。  岩都ものぞきこむ。 「先生はこの店をご存じですか」  レシートの文字のインクは、雪で濡れたせいか、にじんでいたが、はっきり読み取ることができる。 「文画堂《ぶんがどう》さんですな。京都の大きな画材店ですよ」 「さすがですな。野々宮画伯は、関西へ行かれたときはよく、この店で画材を用意されていたようですが」 「ええ、そのとおりです」  と、国立画伯はうなずく。「で……?」 「この店に問い合わせてわかりましたが、野々宮画伯は、たしかにこのレシートの日付どおりに、十二月二十六日に文画堂へ行かれて、ホルベインという会社の絵具と張りキャンバスを、口座《つけ》で買っているのです」 「東京を出たのが二十五日だから、新宮へ行く前に京都へ寄ったことになるわけですね」  と、国立画伯。 「そのとおりです。が、ここで興味をそそられるのは、裏のほうです」  酒田は、レシートを裏返した。  ボールペンの文字が、油性のインクのせいか、それほどにじまずにはっきりしていた。しかし、字はひどい癖字《くせじ》で、極端に右上がりだ。  だが、最初のは片仮名のようで、何とか読める。 「これは、野々宮画伯の字ですか」  と、酒田に訊かれて、 「まちがいなく」  と、国立画伯は答えた。「刑事さん、彼の癖字は有名なんですよ。自分でもずいぶん気にしておりましてな、昨年会ったときはワープロを習っていると話しておりましたよ」 「こんなふうに、手帳やノートではなくメモする癖はありましたか」 「ええ、ありましたな、手当たり次第の紙に。煙草の空箱なんかにもよくメモしたり、スケッチなどをする癖がありましたよ」  特に旅先ではそうだったらしい。 「一番上のが、�ヤ�か�マ�と思いますが……」  酒田はいった。 「Aにも読めますよ」  と、岩都。 「次はどうでしょうか」 「�済�かな」  岩都はいった。 「いや�臍《へそ》�でしょうな」  と、国立画伯。 「一番下は、�祖母�でしょうな」  と、酒田。  これは、まちがいなさそうだ。  以上を一覧表にすると、   A  済  祖母   ヤ  臍   マ  である。  国立画伯は、紙ナプキンに書き付けたその字を見つめながら、しきりに首を捻り、 「刑事さんはこれが手掛かりになると?」 「かもしれませんな……」  しかし、慎重な口ぶりで、「事件とは何の関係もないかもしれませんがね……、何か思い付きましたら、わたしに教えていただけませんか」  それからまた、しばらく話し込み、彼らは時計台裏の鮨屋を出た。     4  酒田刑事と別れた足で、岩都桂介は国立画伯とともに、最寄りの喫茶店北地蔵に寄った。  二人はカプチーノを頼んで、話をつづけた。 「あの刑事さんは、容疑者については触れなかったが、すでに目星はつけているんじゃないだろうか」  と、国立画伯がいった。 「ぼくもそんな気がしましたね」  と、岩都は答えた。「実は、ぼくも、�だれが利益を得るか�と、さっき先生がおっしゃった言葉を、ずうっと考えていたのですがね、刑事さんはあのとき先生の質問をはぐらかしたでしょ」 「ははッ、君も鋭い」  国立画伯は笑った。 「先生は、実際、どうお考えですか」 「ま、絵描きとしては、芸術院会員というわけではないしねえ、彼の資産はどうだったんでしょうな。わたしの例でいうと、若いときから貧乏暇なしで、大体、芸術をやるものはお金には縁がないからねえ」 「でも、野々宮画伯の自宅は杉並区荻窪でしょ。土地はご自分のものだったのですか」 「いや、土地は借地のはずですよ」 「面積は?」 「何度か訪ねたことがあるが、猫の額《ひたい》みたいなものだとこぼしていた。せいぜい、四十坪ぐらいじゃないかな」 「しかし、借地でも長年住んでいれば半分以上の権利はありますよ」 「ほう、そんなものですか。すると、どのくらいの資産価値があるの」 「さあ、坪一千万なら二億ですか」 「ほう、すごいな。東京は札幌の十倍以上ですか」 「なにせ、軽井沢ですら、すでに二百万以上もするそうですよ」 「ほう。狂ってますな。ところが、彼はその軽井沢に別荘を持っているよ。わたしも滞在させてもらったことがあるがね」 「坪数は?」 「たしか、一|反《たん》」 「じゃ、三百坪ですか。ざっと、六億」 「へえッ、彼は、いつの間に……。そんな金持だったんですか」 「土地ブームのおかげで、そういうことになります。借金でもあれば別ですが」 「いや、それはないはずです」  国立画伯はしきりと首を振り子のようにした。 「相続人はだれになるのですか」 「お嬢さんだろうね」 「お子さんは、その一人だけですか」 「まあね……」  国立画伯は言葉を濁した。 「そのかた、アメリカに行っているという?」 「そう、斐美香さんといいましてな、子供のときからよく知っています。先日も、彼の遺体を引き取りにきたときは、わたしの家に寄っていった。なかなかの美人でありました。しかもアメリカの大学院で文学を研究しているはずです」 「才媛《さいえん》なんですね」 「野々宮君の場合は、昔、奥さんとトラブルがありましてね、もう二十年になりますか、それで別れたんですな。そのときは、わたしも何度か仲裁役をやらされたが、結局だめでね、奥さんは斐美香君を残して家を出た。ま、なんというか、当時は、まだ赤貧洗うがごとき状態で、奥さんとしては、絵描きの女房が堪えられなかったんでしょうなあ」 「で、今は? 別れた奥さんのことですが」 「ええ、篠原洲子《しのはらしまこ》さんといって、東京で事業をしています」 「お幾つですか」 「彼よりずっと歳が下で、たしか五十歳ぐらいじゃないか」 「事業というのは?」 「レストランを何軒も持っているそうだよ。わたしも、去年でしたが、久し振りで赤坂の店に行ったことがある。彼女にも会ったが、なかなかの女将《おかみ》ぶりでしたな」  店の名は、卑弥呼《ひみこ》というそうだ。 「卑弥呼なら、邪馬台国の女王ですね」  岩都はつぶやいた。  言葉をつづけて、「で、故人の回りにいた関係者は、他には……?」 「そうね、わたしの知るかぎりでは、野々宮君は、その後ずうっと独身生活で、身の回りの世話は、住み込みの家政婦さんが……。名前は大森多津子といって、六十前後。その女の息子というのが野々宮君の弟子でしてね、彼はうちの会の会友ですが、大森|盛児《せいじ》といいます。あとはこの十年ばかり契約している京都の画商で北丸安国《きたまるやすくに》。わたしも何点か買ってもらったことがあるが、ちゃんとした男ですよ」  国立画伯は言葉をとぎらせ、「そんなところかな、そういえば最近入れた、安原《やすはら》君という秘書役の若い女の子がいたっけ。ま、絵描きの卵なわけだが……、それから野々宮君には弟さんがいるはずです」  岩都は、それらの名前を手帳に書き留める……。  ——さて、その翌日、岩都桂介は、早速、武丘部長に、この件で取材費を貰えるかと相談したが、あまり乗り気ではない。 「ま、社会部の仕事をうちの部がやるのは適当じゃないな」  というのが、部長の返事であった……。  第一章 マの邪馬台国     1  平成元年二月の初め、野々宮|斐美香《ひみか》は札幌にきていた。彼女を招いてくれた札幌の知人は、国立《くにたち》登といい、父と同じ独画協会の長老会員の一人である。  父親、野々宮太郎の葬儀は、絵描き仲間の世話を得て終わったが、捜査本部の事情聴取が残っているため、ふたたび、雪祭りで賑わいはじめた札幌の国立画伯の家に、滞在していたのである。  二月四日、その日は土曜だった。彼女は国立画伯に連れられて、市内の�四丁目�に出ていた。�四丁目�というのは市民たちの呼び名で、駅前通りと南一条線が交差する場所を指す。札幌では、一番地価の高いところだという。  今年は暖かい冬だそうだが、さすがに市内は真冬がつづいている。気温がプラスになる日もあるが、一転たちまち吹雪いたりする。駅前通りは真っ白い冬景色、雪祭り会場を除いて人通りはまばらである。  だが、地下鉄と連絡している地下商店街、それとつながるデパートは、外とはうって変わって、どこもが群衆で溢れている。地元の人々には、きっと、なんでもないことなのだろうが、彼女にはそれがひどく奇異な眺めであった。 「いってみれば、そう、街が地下道でつながるにつれて、だんだん迷路化していくのを感じますな」  と、画伯も彼女にいった。「何十年となくここに住んでいるわたしでさえが、最近の札幌は、どんどん変わって、道に迷うことがある」  事実、三越デパートの地下でステーキ用の牛肉を買い、地上へ出ようとしたところで、国立画伯は出口をまちがえたばかりである……。 「家内にもよくいわれるが、わたしはひどい方向音痴でね。邪馬台国へ行った中国人も、きっとわたしのような方向音痴の人間だったにちがいないね」 「ええ、きっとそうですわ。ですから、ほんとうは北東へ行く道を東南と書きまちがえたりしたんですね。それで、後の世の人たちが、未だに邪馬台国がどこにあったのかわからなくて、大勢の学者さんたちがいろんな学説をたてているんでしょう」  二人は鉛色の雪雲の下を、歩きながら話す。 「こっちです」  今度は、国立画伯も道をまちがえなかった。駅前通りから東へ裏通りへと曲がり、少し行ったところに西洋の城みたいに石材を積み上げた、変わったビルがあった。パレード・ビルというらしい。  彼女は老画伯についてその一階にあるカフェ・アンフィニという名の喫茶店に入る。  入った印象はとてもしゃれていて、札幌がただの地方都市ではないことがよくわかった。店は若い人で混んでいた。服装もかなりの水準でおしゃれである。  一番奥まった四人掛けの席に着き、斐美香がそのことをいうと、国立画伯は、 「まもなくここに来ると思うが、その人の説によると、札幌は双子《ふたご》座の都市だそうですよ。つまり流行に敏感なのが札幌っ子らしい。その代わり飽きっぽくもある」  と、話した。 「先生もですの?」  と、話を合わせながら、「服装がいつもおしゃれで若々しいですし、それに趣味もおありでしょ」  国立画伯は手品が趣味で、それも玄人《くろうと》はだしである。 「いや、わたしは牡牛《おうし》座です」  と、画伯はいった。 「父と同じだったんですね」  この星座は、芸術的センスが抜群にある反面、意外に子供っぽいところがあるのだ。 「ほう」  画伯は驚いた目をした。「知らなかったな。どうりで野々宮君とは、お互い気が合う友人だったんですなあ」 「父とは長いお付き合いだったんですか。あたしの生まれる前からだってことは知っておりますけど」 「ええ、お父さんとは日本が戦争に負けた時代からで、もう四十年以上になる」  と、いって老画伯は、今は過去の元号となった昭和の昔を、懐かしむような目をした。  戦後の食糧難の時代、斐美香の父は札幌に疎開して、国立画伯の厄介になったことがあったようだ。当時は、絵描きがまともに食えるような時代ではなかったので、お互いいろいろな苦労もあったらしい。 「斐美香さんは?」  と、訊かれた。 「あたしは十二月十五日生まれですから、射手《いて》座ですわ」  彼女は答えた。  この星座の人は、一般的に自由奔放、行動的なプレイ派だ。開放的で教養重視。反面、天使と悪魔が同居しているような二面性もあるといわれるが、彼女は、占いの類《たぐ》いを信じたことはない……。  それから十分ほどして、くだんの人物が現れた。国立画伯がぜひ会わせたいと話していた人である。ざっくばらんなバーバリ姿の人物は、荒尾十郎《あらおじゆうろう》といい、古代史には造詣《ぞうけい》が深いそうだ。年齢は五十代だろう。挨拶を交わしたとき、最初の印象は大学の先生かと思ったが、この街に住む作家だという。  開口一番、 「新しい札幌駅の、先生のステンドグラスですが、拝見しましたよ。あれ、若々しくって、なかなかいいと思いました」  話しかたが親しそうである。 「荒尾さんは、美術批評家でもあって、わたしもよくお世話になっている。古代史にも詳しいのでね、ま、今度の問題は、わたしよりか、この先生に相談するといいと思ってね」  と、老画伯は斐美香にいい、 「実はもう一人、ここで会うことになっている……」  と、いいかけて、「ああ、来たようです」  外は吹雪に変わったのか、頭髪を真っ白にした長身の青年が、入口のところで頭の雪を手で払った。  彼もまた、彼らの席に近付いてくるなり、 「ニセコからの汽車がおくれてしまって……。札幌駅で先生の製作された大ステンドグラスを拝見してきましたが、北のロマンですねえ」  と、誉《ほ》める。  国立画伯は、この北海道では、氷人シリーズといって、氷の世界にたたずむ母子像など、神話的な雰囲気のする作品でよく知られているのだ。  紹介された青年の名は、岩都桂介《いわとけいすけ》といった。荒尾十郎とも、よく知った間柄のようである。  おそらくスキーであろう、黒く雪焼けした健康そうな彼は、荒尾に向かって、 「先生から紹介されたニセコの地主さんにも会い、一反ほど買うことにしてきました」  と、報告する。 「じゃ、いよいよですね。よければいい設計者を知っているから、そのほうも紹介してあげますよ」 「その節はまたよろしく。ニセコ連峰が真近な白樺林でしてね。枝に張り付いた樹氷がとてもロマンチックでしたよ」  しかし傍《かたわ》らで聞いている斐美香にはなんのことかよくわからない。  すると、 「彼は今度、ニセコにヒュッテを建てる計画をしているんですよ」  国立画伯が教えた。 「素敵な計画ですね」  彼女は、あらためて青年を見た。好みのタイプである。 「ははッ、北海道にはまだ、タダみたいな土地がたくさんありますからねえ」  と、屈託なく笑った彼は、肩幅ががっしりしていて、登山家のようでもある。実際、彼は山岳スキーを趣味にしている、地元新聞社の記者だそうだ。  彼らは、ひとしきり雑談に華《はな》を咲かせたが、やがて、 「皆さん、ところで……」  国立登は改まった顔付きになり、コップの水をひと口飲む。  歓談していた他の者は、口をつぐむ。 「電話でも話しましたが、この斐美香さんのお父さんの事件について、皆さんのお知恵をお借りしたいと思いましてね。わたしからも、ぜひ力になってあげてくださいとお願いします」  斐美香は、国立画伯にならって、 「よろしくお願いいたします」  と、しおらしく頭を下げた。 「ええ、ぼくもその話を先生から聞いて、驚きました。野々宮先生の桜島を描いた六号の絵を一点、ぼくも所蔵しているのですよ」  と、最初に応じたのは荒尾十郎だった。 「まあ、そうでしたの」  彼女は思わずいった。「父は鹿児島の桜島が好きで、よく描いておりました」 「昨年の展覧会のとき、ぼくは、東京であなたのお父さんとお会いしているんですよ」 「父をご存じだったのですか」  知らない土地にきて、また一人、父を知る人がいたのだと知って、彼女は目をしばたたかせた。 「ええ、国立先生のご紹介でね。そのとき話したのが、国立先生は流氷を描き、野々宮先生は火山を好んで描かれる……。氷と火なのに、どうして仲がいいのですかってね。ま、冗談なわけですが、ねえ、先生、そんな話をしましたね」 「そうそう、ありましたな」  後から考えると、このときの話に、すでに、邪馬台国千古の謎を解く、大きなヒントが隠されていたのである。     2  改めて斐美香は、父のことを話したが、気分は最低……。 「……そういうわけで、あたしが事件のことを知ったのは、一月八日でした。あたしは、今、ニューヨーク州の大学院に籍を置いているものですから、急いで大韓航空を予約して、成田に着いたのは十日でした。ちょっと家庭的な事情がありまして、あたし、アメリカはもう四年以上になります。その間、ずうっと帰っていなかったので、あたし、父の近況はなにも知らなかったのです」 「アメリカに連絡をくれたのは、警察ですか」  荒尾が、煙草に火をつけながら訊く。 「いいえ、父の秘書をしている安原《やすはら》さんですわ」 「彼女は、安原|令子《れいこ》君といいまして、野々宮君の教え子なんですよ」  と、国立画伯がいい添えた。「野々宮君は、武摩《たけま》美大の講師をしておるものですからね」 「父は、お金のことはまるでだめなので、支払いとか税金のことなどを、安原さんに頼んでいたのです」  と、斐美香は話した。 「ふーん」  荒尾は目を鋭くして、首を左右に振り、「ところで、斐美香さん、お気持はお察ししますが、ここはちょっと聞き難いこともお質《たず》ねするかもしれませんよ」 「ええ、あたしは大丈夫ですから、どうぞ」 「国立先生のお話ですと、お父上は、ずっと、邪馬台国探しに凝っておられたとか。それで、新宮へ行かれたというのは本当ですか」 「ええ、それはまちがいないと思います」 「というと?」 「父はあたしの誕生日が近付くと、毎年プレゼントを送ってくれますの。今年は革のハーフ・コートでしたけど、小包の中に、手紙が入っておりまして、邪馬台国の絵を描きにいくつもりだって、書いてありましたから」 「なるほど、その手紙を見せていただけるとありがたいのですがね」 「手紙ならここにありますわ」  彼女は、ショルダーバッグの留め金をあけて、しゃれた和紙の封筒を差し出した。 「拝見します」  黙読して、他の者にもまわす。  内容は、消息なども書いてあったが、終わりにはたしかに、「今度、ひょんなことから邪馬台国を見付けてしまったので、ふたたび今年も暮れから取材に出掛けるつもりだ」云々という意味のことが、非常に読みにくい悪筆で書かれていた。 「……読めるでしょうか」 「ええ、なんとか」  国立画伯も、老眼鏡ごしに書面を読んでいる。  言葉をつづけて、「彼の悪筆は有名でありましてね、本人もずいぶん気にしておったな。最近は、ワープロを習って使うようになったが、娘のあなたには、やはり悪筆でも自筆の手紙を書いていたんですなあ」 「あたしなら父の字を読めますから。でも、郵便屋さんが読めないような文字でしょう、最近は宛名もワープロで打っておりました」 「ほう」  と、荒尾は興味深そうにいった。「国立先生が受けとられた年賀状も、ワープロ打ちの宛名だったそうですね」 「ええ、そうですよ。今度、上京して、東京で何人かの友人に聞いたところ、皆、そうだったそうですよ」 「荒尾さん、事件とそれが何か関係するのですか」  岩都桂介が訊く。 「いや、……その話はあとにして、斐美香さん、先をつづけてください」 「はい。で、これが、その手紙に同封されていた邪馬台国の風景ですの」  郵便葉書用のスケッチブックの画用紙に、それは描かれていた。一見なんでもない屋根を連ねた田舎町の風景である。省略が多くて現地の詳細は、それだけではわからないが、さすがプロの描いたものだ。いい味があって、額に入れて飾っておきたいスケッチである。 「この邪馬台国は、早春の景色ですかね」  と、荒尾がいった。  たしかに、淡色されているスケッチは、三月ごろの景色である。斜面になった場所に家の屋根が連なり、右手のほうに、こんもり盛り上がった小山があった。その頂《いただき》に、大きな樹が目印のように目立っている……。 「ということは、昨年の春にもここを訪れているということだね」  荒尾がいった。 「いいえ、昨年じゃないと思います」  と、斐美香がいった。「あたしもそう考えて、安原さんに訊いたのですが、昨年の春は、父は中国旅行をしていて国内の取材はなかったそうです」 「ほう……」  荒尾は首を傾げながら、「どう思います?」  と、葉書を国立画伯に手渡す。 「たしかに野々宮君の手だね」  画伯はうなずき、「しかし、これは古いものだよ。見たまえ、画用紙の縁が少し変色している」  と指摘した。  言葉をつづけて、「きっと十年ぐらい前じゃないかな。ドローイングの線が、ゴツゴツしている。ひところ、野々宮君は、こういう感じのエスキースをよく描いていたことがあるのです」 「なるほど。さすがですなあ、先生」  荒尾は感心したようにいった。 「想像するに野々宮君は、きっと、昔、この場所に行ったことがあり、最近になって何かのヒントでここが邪馬台国だったと気付いたんじゃないだろうか」 「あり得ますね」  と、荒尾はうなずく。「で、ちょっと、先生に届いた年賀状のほうを見せていただけますか」 「ええ、これですよ」 「ああ、やはり、こうして見比べると、ずいぶん、感じがちがいますね」 「わたしは、昔のほうが好きですがね」  と、国立画伯。  荒尾は宛名書きのほうを返し、 「住所氏名もワープロですね。ご自分の名前も……」 「千歳署の刑事さんは、この文字に相当するハンディ・タイプのワープロが、彼のキャンピング・カーに積まれていたと話しておりましたよ」 「物取りなら、持っていったはずですよね、ワープロを……」  岩都が口をはさむ。 「ま、そうですね。とにかく、この年賀状の投函日は十二月二十九日で、場所は新宮局になっていますね」  荒尾十郎は、考える目をしながら、ふたたび野々宮斐美香に届いた手紙のほうに目を移した。 「ねえ、斐美香さん、この手紙を見て、なにか気付いたことはありませんか?」 「はあ」 「ここのところですよ」  そういって荒尾は、その個所を示した。  こう書いてあった。 �……最近はそういうわけで東京はマネー・ゲームに明け暮れている。せんだっても、珍しくお前の母がきて、今住んでいる場所を売るように勧めてきた。不動産屋の松川《まつかわ》を知っているね。あれが、洲子《しまこ》を唆《そそのか》しているらしい。荻窪の土地は借地だけれど、こちらにも借地権というものがあるのだそうだ。地主は売りたがっているらしい。大手の企業が付近を買収して、大きなスーパーを建てる計画だそうだ。しかし、ここは、お前の生まれ育った場所だ。わたしは、お前に相続させるつもりでいた。  どうしたらいいか、一度、将来のことを含めて、お前の気持をききたい。もう何年もお前には会っていないが、そろそろ日本に帰ってきてくれないかね。お互い腹を割って、相談しようじゃないか。  洲子のほんとうの腹は、わたしもわかっている。傍目《はため》には派手に商売しているけれど、内実はかなり悪いらしい。きっと、あの土地を売った金を融資して欲しいと思っているのだろう。わたしは、あれと別れたときは何もしてやれなかったし、お前がもう日本に戻らないというのならそれでもいいと思っているのだが、とにかくそういうわけだから、一度、帰国して欲しい。  わたしももう歳だ。住みにくくなった東京を離れて、どこか田舎に引っ越して仕事をしようかと思っている。  同封したスケッチが、その場所だけれど、ひょっとすると、スケッチの中の小山が、わたしが長年探していた卑弥呼の墳墓かもしれないのだよ。お前も、わたしがずっと前から、邪馬台国の研究を趣味にしていたことは知っているね。わたしと洲子が別れた原因の一つが、わたしの邪馬台国狂いだった。しかし、とうとうわたしは邪馬台国を見付けた、と思っているよ。  暮れからここへ取材に出掛ける予定だ。そして、現地に適当な家があるかどうかも調べ、できれば契約も済ませてくるつもりだ。  とにかく、お前に会いたい。サガンの研究なら日本に戻ってもできるのじゃないか。父として今のお前の生活を本気で心配しているのだよ。いつかも話したように、日本に戻り、いい相手を探して結婚して欲しい。孫の顔を一日も早くみせて欲しい。  昭和六十三年 師走 吉日  斐美香 様� 「過去にどんな事情があったかは知りませんが、この手紙、お父さんの気持が、行間ににじんでいるじゃありませんか」  と、荒尾十郎がしみじみした口調でいった。「ぼくにも娘がおりますがね、父親というのは娘がかわいくてしかたがないのです」 「ええ、それはわかりますけど」  斐美香は、顔をうつむけて、うなずいた。 「ニューヨークの大学院ではサガンを専攻されているのですか」 「はい。いい先生がおられますので……。日本の大学のときも卒論のテーマはサガンでしたの。今しているのは|脱・構造主義《デ・コンストラクシヨン》からみたサガン研究ですわ」 「なるほど……」  と、荒尾はうなずき、 「しかし、ま、その話は別の機会にして、国立先生、この最初のところですが、マネー・ゲームとあるところを見てください。マの字です。電話で伺ったレシートの裏に書かれていたというメモですが、三字あったそうですね。比べてどうですか」 「ええ、なるほど、あれねえ」  と、国立画伯は老眼鏡の目を近付けて、「岩都君、君はどう思いますか」 「ああ、レシートの最初のとそっくりですね」 「わたしもそう思う」  と、国立画伯。 「ということはレシートの最初は、�マ�ということになりますね」  と、荒尾十郎。 「あの、なんの話でしょうか」  と、野々宮斐美香。 「千歳署の刑事さんが、遺体の近くで、レシートを拾ったんですよ。その裏にあなたのお父さんの字が書かれていたのです」  岩都が教えた。 「それがね、マともヤともAとも読めるので、なんだろうと迷っていたのですな」  と、国立画伯。 「そうでしたら、父のマはいつもこうですわ」  斐美香はいった。 「となると、次ぎは、二番目の�済�とも�臍�とも読める字だけれど、この手紙には�腹�と�済�の字が含まれている。腹のニクヅキや済と比べてどうですか」 「ええ、済じゃないですね。偏は腹のニクヅキによく似ていましたよ」 「そうですか、じゃ、�臍�だな。あとで、千歳署の刑事さんにこの手紙を見せて、再度、確認したらいいと思いますが、とにかく、レシートの字は、�マ�、�臍�、そして�祖母�ということになりますか」 「ぼくは、それで九十九パーセント確定だと思うけど、しかし、いったい、どういう意味なのかなあ」  岩都は、しきりに首を捻る。 「謎ですな」  国立画伯もいった。「�マ�を漢字に当てはめると、真、馬、魔などになるが、真の祖母の臍という意味でしょうかね」 「しかし、それでも意味は通じませんよ」  と、岩都。 「……斐美香さんには、祖母さんはいるの?」  と、荒尾。 「いいえ、亡くなりましたけど」  彼女は首を傾げた。 「とにかく、これはわれわれの宿題にしておいて、このレシートが発行された日付、つまり十二月二十六日ですが、京都に野々宮先生がおられたのはたしかですね?」 「ええ」  国立画伯はうなずいた。「画材店にいったあとで、野々宮君は、京都のぎゃるりー北丸《きたまる》に立ち寄っているのです」 「国立先生もご存じの画廊ですか」  荒尾が訊く。 「この数年ほど、野々宮君が契約している画廊ですよ」 「むろん、ちゃんとした画廊ですね?」 「ええ。あそこの社長は北丸|安国《やすくに》といい、まだ四十代で若いが、東京にも店を持っておりましてね、実はわたしも一度、個展をやらせてもらったことがあるのです」 「そうですか」  考え深そうな顔をして、荒尾は首を傾げた。 「葬儀のときにも会いましてね、そのとき、彼が話していましたが、野々宮君は立ち寄ったとき、これから新宮へいくと話していたそうですよ」 「ほう」 「年賀状のことを訊きましたら、やはり届いていましたよ、北丸さんのところにもね」 「ああ、その年賀状の件ですけれど、他にも出されていたのですか」  荒尾が国立画伯に訊く。 「ええ、皆、新宮局の消印で、日付も十二月二十九日で一致している」 「なるほどねえ」  と、荒尾は、依然として考える目だ。 「ただね、絵描き仲間の一人がですね、ふと漏らしたのですが、『自分が貰ったのは多分、那智の滝を描いたものだと思うが、野々宮君らしくない』というのですよ」 「どうしてですか」 「ええ、葬儀に集まった他の絵描きたちもね、自然にその話に加わって、口々に、『野々宮君ほどの画家が、あんな観光絵葉書的な絵を描くとは思わなかった……』という。『たとえ、葉書大のスケッチであってもね』、というのです」 「はあ、絵描きさんというのは、そんな鋭い見方をするものですか」 「それも、野々宮君が、普段から仲間に尊敬されていた画家であったからですよ。彼が普通の絵描きならだれもそんな言いかたはしないし、気付きもしなかったでしょうがね」 「なるほどなあ」  荒尾十郎はしきりにうなずく。 「わたしたちのように五十年も絵を描いていると、だんだん、何気ないが、深い味わいのあるものが描きたくなってくる。それが風景であってもそういう心境になるものなんですよ。ま、それでは絵は売りにくくなるので、多少の妥協はしますがね」 「たいへん参考になります」  荒尾は言葉をつづけて、「ところで、野々宮先生の邪馬台国研究は、この手紙にあるとおり、かなり年季が入っていたみたいですね」  と、斐美香に訊く。 「ええ。あたしはまだ子供でよく記憶していませんけど、父は若いころから、絵のほうはそっちのけで、邪馬台国のことばかり。貧乏なのに、土器やら卑弥呼の鏡と称するものを、借金して買ってきたりして、母は生活が大変で苦労したみたいですわ。それが結局、離婚の原因になったって、母は話しておりましたけど……」  国立画伯が口をはさむ。 「その卑弥呼というのが、邪馬台国の女王様ですか」 「ええ、そうですよ」  と、荒尾。 「斐美香さんの名と似ていますな」 「ええ。父はそのつもりでつけた名前だっていってましたわ」 「国立先生。この卑弥呼という女性は、鬼道《きどう》に事《つか》えると『魏志倭人伝』には書かれているから、霊能者だったにちがいありません。ま、古代は、全部、そうした霊能者に御伺《おうかが》いいをたてて、政治をしていましたからね」  と、荒尾は教える。  国立画伯は、改まった目をして、スケッチの中の小山を眺めながら、 「ところで、このスケッチの場所は、どうなんです……酒田刑事さんにも見せたのですか?」 「いいえ、明日、この手紙と一緒に持参するつもりです」 「ここが、どこかわかると、事件の解決に役立つかもしれませんな」  と、国立画伯はいった。 「あたしも一度、現地に行ってみようと思っておりますの」  と、斐美香は話した。 「しかしね、荒尾先生……。新宮が邪馬台国であるという考えは、初耳ですが、実際のところどうなんですか」  岩都が訊いた。 「実はぼくも、その点で引っ掛かるのですがね。ま、普通は、奈良盆地の大和か、九州のいずれかですからね、紀伊半島の新宮説はちょっと珍しい。しかし、以前にも、その説を唱えた人もいなくはないのです」 「そうなんですか……」  岩都は、荒尾の顔を見た。 「多分、その根拠は、新宮の徐福《じよふく》渡来伝説や、もう一つは、あのあたりの山中にある不思議な石垣の存在のせいだと思いますね」 「その徐福渡来伝説というのはなんですか」  と、岩都。 「新宮市に行くと、街の中にその碑がちゃんとあるんですよ」  荒尾によると、この徐福というのは、伝説の人で、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》の命を受けた彼が、大勢の者をつれて、蓬莱《ほうらい》山にある不老長寿の仙薬を探しにきたという。その話が司馬遷《しばせん》という人の書いた『史記』にも載っていることから、その到着地が新宮にちがいないという言い伝えが生まれたものらしい。 「不思議な石垣っていいますと」  岩都が、また訊く。 「岩境《いわさか》の一種なんでしょうが、土地の人は昔これもシシガキといっていた。漢字では猪の垣根のことですが、そのようなものが存在する理由がわからない。とにかく全長百キロにも及ぶといわれているくらいですから。しかし、高さが一、二メートル、厚さ五十センチにすぎませんから、城塞跡とはいえない。多分、山に住む部族の境界線あるいは神域をあらわす岩境だったのでしょうな。で、これが邪馬台国の国境だったのだろうとね、ま、そんな推理もできないわけではないのですよ」  荒尾は言葉をつづけて、「もうひとつの根拠は、和歌山県、吉野川の流域に伊都《いと》という郡名がある。ところが、『魏志倭人伝』には、この伊都国から水行十日、陸行一月とあるので、多分、邪馬台国は新宮付近の熊野山中にあったにちがいない、と推理したわけでしょうな。根拠のもうひとつは、熊野の地名でして、狗奴《くな》という『魏志倭人伝』に出てくる国名に似ているのです」 「じゃあ、やっぱり、紀伊新宮説でも、一応は根拠はあるのですね」 「ええ、まあ。とにかく、邪馬台国がフィリッピンにあったとか、いやメソポタミヤにあったという説よりか、はるかにまともなものといえるだろうね」 「へえッ、そんなのまであるのですか」  岩都は、驚いて目を見張った。     3  孫たちが来るとかで、国立登は野々宮斐美香と先に帰っていった。カフェ・アンフィニには、荒尾十郎とともに岩都桂介が残った。 「なかなかチャーミングな娘さんじゃないか。面長なところは由紀さおりに似ているね」  と、荒尾はいった。「父親を亡くしたのにしっかりしているし、たしかに頭もよさそうだ。国立先生がいってましたけど、歳は二十五だそうですよ。父親の手紙のとおりならまだ相手がいない……。君もだろ。どう、立候補したら……」 「ええ、まあ」  言葉を濁す桂介であった。 「幾つなの、君は」 「来年三十の大台に乗る予定です」 「君、これはひょっとすると、国立先生のたくらんだ見合の席だったりして……」  柄にもなく顔をあかくしている桂介であった。 「星座は?」 「一月二十九日生まれだから、水瓶《みずがめ》座です」 「ほう。すると頑固な理想主義者だね」 「そうでもないですよ」 「彼女は十二月十五日生まれだから、射手《いて》座だね。付き合うとおもしろい女性じゃないか」 「そうでしょうか」  ホロスコープなど、信じていない、合理主義者の桂介であった。 「ま、その話はともかく、君、この非常に興味深い事件を解決するために、ひと肌脱ぐ気はありませんか」 「そうですね、うちの部長とも相談してみます」 「で、邪馬台国のことだけど、詳しいわけ……」 「いや、まだ常識程度ですよ」 「じゃ、勉強し直して欲しいね」 「わかりました。昔の受験勉強のつもりでやってみますが、ぼくが読んだのは、高木彬光《たかぎあきみつ》さんの『邪馬台国の秘密』ぐらいなもんで」 「ああ、あれを一冊読めばだいたいのところがわかる。解説書としても一級ですよ。でまあ、さしずめ、君は神津恭介《かみづきようすけ》。名探偵登場ということになりますかな」 「とんでもないですよ、神津恭介は先生のほうですよ」 「いや、ぼくにいわせれば、さしもの名探偵も邪馬台国問題に関しては完全にまちがっていた——そういいたいですな」 「すごい自信ですね」 「ははッ、冗談ですがね。しかし、少なくとも野々宮太郎氏が、どこへ行っていたかは、いずれ推理できると思いますよ」 「ということは、野々宮画伯の推定していた邪馬台国の場所のことですか」 「ま、そうですな」  と、荒尾は小柄なウエイトレスを呼んでコーヒーのお代わりを頼む。 「君は?」 「ええ、いただきます」  たしかに、深く煎《い》った豆をひいて入れたここのコーヒーは、癖になりそうである。 「で、ぼくの流儀は、シャーロック・ホームズ流でね、グラナダが製作したのをNHKがやっていたでしょう」 「見たことはあります。俳優の演技がスマートでいいですね、あれは」 「それもですが、あれを見てぼくなりに、ホームズの流儀は帰納推理だと思う。実は、そういうことも論じた評論もあるのですが、読んでみるとなるほどと思う。つまりですね、ホームズは最初の直観で結論に達している。あとは、その推理を補強する証拠を探して歩くにすぎません」  と、愉快そうに話し、「邪馬台国問題の解決にしても、なまじな予備知識はかえって邪魔になる。いや、予備知識以上にね、ある特定の観念が推理の邪魔をするんじゃないかと、思うわけですよ」 「と、いいますと」  と、岩都桂介は相槌《あいづち》をうつ。「たしかに、ホームズも捜査のベテランである刑事には素人呼ばわりされておりますね」 「しかし、結果的には、難問を解くのはいつも彼です。結論はいつも明快ですきっとしているので、われわれ読者や視聴者はすかっとするわけですよ」 「先生も、そのすかっと流儀で、邪馬台国問題を解決できるといわれるのですか」 「ははッ、まあねとも、多分とも、またおそらくともここではいわないでおきましょう」  と、荒尾は目だけで笑った。  言葉をつづけて、「ただ、われわれが、邪馬台国とはなんの縁もゆかりもない北海道に住んでいるということが、多分、武器になるんじゃないか」 「鏡のような澄んだ目で問題を見るということですか」 「たとえば、君が、東京から札幌にくるにはどういう方法をとりますか。飛行機を使ってひとっ飛びでくるのもその一つ。津軽海峡海底線の開通していなかった昨年までなら、青森まで列車できて、連絡船に乗り換え、函館《はこだて》に着き、また列車に乗ってくるのも一つの方法でしたでしょ」 「車で八戸《はちのへ》まできて、あとフェリーを使って苫小牧に上陸する方法もありますね」  と、岩都桂介はうなずく。 「同様、帯方《たいほう》郡から邪馬台国への道も、一つじゃなく、たくさんあったと考えるのは不自然だろうか。むしろ自然だと思いませんか」 「そうですね。つまり、東京を、韓国のソウル付近にあったといわれる帯方郡に見立て、また邪馬台国を札幌に見立て、さらに対馬海峡を津軽海峡に見立てるなら、道中の道筋と方法はいろいろあるってことですね」 「そう、われわれが素直に考えられるのも、北海道に住んでいるからだと思いませんか。つまり、われわれにとっては、日常的には当たり前の知識なわけで」 「たしかに……。今じゃ、列車の時刻表にだって、飛行機もフェリーも全部載ってますものね」 「実はそうなんです。要するに旅行案内書だと思うね、『倭人伝《わじんでん》』は……。今の観光ガイドブックには、旅先の産業、文化とかの情報もちゃんと書いてあるが、あれと同じ感覚で書かれたのが、『魏志倭人伝』かもしれない」 「ああ、なるほど」  まったく普通と異なる見方を教えられたような気が、彼はした。 「それでどうなります?」 「われわれ、北海道の人間は本州や四国、九州を内地というでしょう。沖縄の人もそういう。お年寄りなんかは今でも、内地を日本というくらいでね」 「ああ、それはぼくも聞いたことがあります。反対に内地の人には、北海道は外地になる」 「ですから、当時の中国人の感覚からいえば、韓国は、江戸時代の人の思っていたみちのく、つまり奥羽地方の感覚。邪馬台国のある倭《わ》国などは、北海道ってことになるわけでね、そう考えれば、なんとなく彼らの邪馬台国に抱いていたイメージもわかる」 「でしょうね、きっと」  岩都桂介は、北海道に住む一人として、そのへんの感覚がよく実感された。 「しかし、いくら遠いからといって、松尾芭蕉《まつおばしよう》はちゃんと奥の細道を旅行したでしょ。僧円空《えんくう》は蝦夷地《えぞち》に渡ってきたわけでしょう。だから、三世紀の中国人にしてもですよ、ちゃんとした倭国に対する知識を持っていたはずだと思うわけですよ」 「なるほどなあ」  と、荒尾十郎の物の見方に、岩都桂介は感嘆したものの、それがいったいどういうことなのかは、まだよくわからなかった。 「つまり、先生のおっしゃりたいのは、こうですか」  考えこみながら彼はいった。「『魏志倭人伝』の記述は正しいはずだと……」 「そのとおりです。しかも、完全に正しい。一点、非の打ち所なく、『倭人伝』は、完璧にただしかったとね」 「だが、それでは辻褄《つじつま》が合わないわけでしょう。これまで多くの学者が悩んだのはそのことで、方角どおりに読めば距離が合わず、距離どおりに読めば方角が矛盾する。ですからこそ、みんな、解決できずに今日まできたわけで」 「ところが、そうじゃないのです。くどいようですが、繰り返します。『魏志倭人伝』はあくまで正しかった。それでも邪馬台国がみつからなかった理由はただ一つ、みんなが読みかたを誤っていたからに他ならない……という大前提からぼくは出発したいのですよ」  いったい、荒尾十郎のいわんとする真意は、どういうことなのだろうか。岩都桂介は、すっかり困惑してしまった。 「昨年、東京でぼくは野々宮太郎氏と会っています。国立先生を交えて、会食したことがあるのです。そのとき話したことを、国立先生はお忘れのようだが、ぼくは古代史に関心があるもんで、よく覚えているのです。むろん、邪馬台国がどこにあるかは、あの先生もいいませんでしたがね、『魏志倭人伝』を逐字的に正確に読むべきだという点では、両者一致したんですよ」 「その結果が、新宮だったわけですね」 「いいえ、ぼくとしては、新宮と知ったとき意外に思いましたよ」 「どういうことですか」  桂介は訊ねた。 「第一、方角が合わない。つまり、野々宮画伯自身が強調されていた大前提が無視されている」 「先生は、じゃ九州説を取る……?」 「ええ、大和説より九州説のほうが有力だってぼくは考えています。野々宮画伯と話したときの印象でも、どうも九州説に傾いていましたよ。明言はしなかったが、『魏志倭人伝』の距離はともかく、方角は正しいはずだと話していましたからね」 「ええ、九州説では距離が合わないのが弱点ですよね」  と、岩都もうなずく。 「そのとおりなんですが……」  と、荒尾十郎は目を鋭くして、しばし沈黙していたが、「やっぱり、ぼくは腑《ふ》におちない。岩都君、ひょっとすると、野々宮画伯は新宮へは行っていないんじゃないか」 「えッ? どうしてですか。画伯は十二月二十九日に、新宮にいたという目撃者の証言があるんですよ」 「けど、はっきり顔を見たわけではないんでしょう」 「それはそうですが。でも先生、新宮で出された野々宮画伯の描いた年賀状もあるんですよ」 「たしかにね。いや、まったくそのとおりなんですが……しかし、ぼくとしては、それがどうも解せないのです」 「先生は、画伯が当日、新宮にいたという、事実そのものを疑っているのですか」 「ええ、一度、疑ってみてもいいんじゃないかと思うね」 「よくわかりませんが」  と、いって、岩都は荒尾十郎の言葉を待った。  だが、荒尾は首を左右に振り、 「今のところは、まだなんともいえません。しかし、野々宮画伯が、邪馬台国研究に関して、そうとうな専門家だったということははっきり断言できるね。というのは、さっきあのお嬢さんに会って、ぼくは改めてそうと気付いたわけでして……」  と、いった。 「といいますと?」 「あのお嬢さんですが、ヒミカさんで、ヒミコじゃない。邪馬台国問題に昔から凝《こ》っていて、卑弥呼にちなんで娘に名付けるなら、普通は斐美子と付けるだろうね、多分。ところが、斐美香とつけたのは、野々宮画伯がかなり専門的な知識を持っていたことの証拠なんですな」 「説明してください」  と、桂介は頼んだ。 「馬韓《ばかん》読みだとね、卑弥呼の呼は、コじゃない。カと読むのです。学者さんも、あんまりこのことは指摘していませんがね、ほんとうはヒミカと読むべきなのです。岩都君はむろん馬韓は知ってますね」 「こうみえても、新聞記者ですからね、馬韓は邪馬台国時代に韓国にあった国で、辰韓《しんかん》、弁韓《べんかん》と合わせて三韓といった……」(図1)   ・  ・   ・  ・ 「そのとおり。しかし、この先は、きっとはじめてだろうね。実は卑弥呼はウル起源の言葉なんですよ」 「ウルというと、ウル・シュメールの?」 「そう。古代メソポタミヤ(今のイラク)のね」  話が飛躍して、彼は驚く。が、こういう話をするとき、荒尾十郎の目は、いつもきらきら輝いている。 「で、卑弥呼のヒミは、ウル語のgis-miが、hi-miと転訛《てんか》した言葉。これは、でたらめいってるんじゃありません。グリムの法則とか、いろいろある音韻《おんいん》学上の法則からいえることなのです。意味は�一の女�。日本語の姫・媛の語源でもあります。次に呼ですが、これはウル語のmi-kasからきた言葉で女司祭のことです。つまり卑弥呼《ヒミカ》は、�一の女《ヒミ》・司祭《カシ》�のことで、ずばり巫女《みこ》王と解読できるわけですよ」(註1)  今から三千年も昔、すでにウル王朝では国王の長女が巫女長になる習慣があったという。一の女は生涯結婚せずに、神の口(口寄せ)としての仕事に就いていたのだ。 「さらにもう一つ……」  と、荒尾はつづけた。「君とこうして話しているうちに思いだしましたが、野々宮画伯は、こんなこともいっておりましたよ。『魏志倭人伝』は暗号書だってね」 「暗号書ってどういうことですか」  岩都は目を見張った。 「繰り返し精読するうちに気付いたそうですよ」 「なにに気付いたのですか」 「方位はともかく、論争の種になっている距離の問題は、『倭人伝』の文中にさりげなく交ぜられている語の真意を読み取ることによって、解決できるというのです」 「なるほど……?」  相槌はうったが、岩都は何一つわかったわけではない。 「そういって野々宮画伯は、あのときぼくに、一つだけヒントをくれたんだな……と今、ようやくぼくは気付いた次第で……」 「ヒントといいますと?」 「冒頭に近い一文ですよ。ここにキイワードがあるのだろうか」  荒尾はそう答え、ポケットから出したメモ用紙にこうしたためたのだ。 �始度一海千餘里至對海國� 「君、どう思います?」 「さあ」 「じゃ、宿題だね。邪馬台国の謎はむろん、真犯人検挙の有力な手掛かりが、ひょっとすると、この短い一文にあるかもしれませんよ」 「じゃ、先生はもう解けているのですか」 「いや、その話はまだ早い……」 「意地がわるい」  と、桂介。 「ははッ、ホームズ先生だって、そういって結論を急ぎたがるワトソン君をよくたしなめるでしょ」 「わかりました、ぼくもその謎に挑戦してみます」 「これには殺人が絡《から》んでいますからね、……簡単にはいえないところもあるんですよ」  と、荒尾十郎は、真面目な顔に戻って、そう岩都に弁明したのだった。  第二章 魏志倭人伝     1  荒尾と別れた岩都桂介は、いったんは社に戻ったが、八時すぎ退社。途中、本屋を回って参考書を買い、ラーメン・ライスでの夕食をすませる。  アパートに戻った桂介、冷え込んだ部屋にストーブをつけ、暖まるまでの間、万年床の中に潜りこんだ。  さて、肝心の『魏志倭人伝』の本文だが、たいていの参考書にも載っていた。しかし、著者によってわずかずつではあるが、読みガナをはじめ、少しずつ異なっていることに気付いた。  訓読文は、高木|彬光《あきみつ》氏の『邪馬台国の秘密』の中にも載っていた。これを飛ばして、話を先につづけるわけにはいかない……。  新たに求めた参考書には、漢字ばかりの原文も載っていたので、こっちのほうも、じっくりと読む。  というのも、荒尾十郎から、 「�読書百遍、意自ずから通ず�というでしょ。暗記するくらい精読してくださいよ」  と、彼は求められたからである。  また、こうもいった。 「われわれ二人だけのルールを作りましょうよ。とにかく、勝手な読み替えは、絶対にしないことです。根拠が明確なら別ですけれど、あくまで原文に忠実であるべきです。ありのままに読めば、ちゃんと邪馬台国がわかるように、『魏志倭人伝』の作者、陳寿《ちんじゆ》先生は、工夫してあるのですから」  くり返すことになるが、荒尾十郎にいわせるなら、『魏志倭人伝』は、一種のパズルだというのだ。その内容は、読めば読むほど矛盾に満ちているが、その実、正確この上ないと断言してはばからないのである。なぜなら、それが暗号文だから……。 「ぼくだって物書きの一人ですから、文にはレトリックを駆使します。それで、ぼくなりに舌をまくわけですが、この文書を書いた陳寿という人は、たいした文章の天才ですよ。読む人が読めばわかる、しかしわからぬ人にはわからない、そんな文を書きうる名手だったような気がしますね」  参考書に載っていた写真によると、『魏志倭人伝』の原文は木版だった。  字数は二千字余りといわれる。  漢字ばかりが、ずらりと羅列されているのだった。むろん、句読点、返り点もない。 (作者註、『邪馬台国の秘密』にならって、後で引用しやすいように、節番号をつけておく。訓読文は、参考書数冊を参考に取捨選択した。なお、陳寿の原文は、邪馬壱国であるが、ここでは通説に従い、邪馬台国としておく。後述)     一  倭人《わじん》は帶方《たいほう》の東南、大海《たいかい》の中に在り。山島《さんとう》に依りて國邑《こくゆう》を爲《な》す。舊《もと》百餘國、漢《かん》の時、朝見《ちようけん》する者有り。今使譯《いましやく》して通ずる所三十國。郡從《ぐんよ》り倭《わ》に至るには、海岸に循《したが》いて水行し、韓國《かんこく》を歴《へ》て、乍《たちま》ち南し乍《たちま》ち東し、其《そ》の北岸《ほくがん》狗邪韓國《くやかんこく》に到る。七千餘里。     二  始めて一海を度《わた》ること千餘里、對島《つしま》(海)國に至る。其の大官を卑狗《ひく》と曰《い》い、副を卑奴母離《ひなもり》と曰《い》う。居る所絶島にして、方四百餘里可《ばかり》。土地は山嶮《けわ》しく深林多く、道路は禽鹿《きんろく》の徑《こみち》の如《ごと》し。千餘戸有り、良田無く、海物《かいぶつ》を食いて自活し、船に乘りて南北に市糴《してき》す。     三  又南に一海を渡ること千餘里、命《なづ》けて瀚海《かんかい》と曰《い》う。一大《いき》國に至る。官は亦《また》卑狗《ひく》と曰い、副を卑奴母離《ひなもり》と曰う。方三百里|可《ばかり》なり。竹木|叢林《そうりん》多く、三千|許《ばかり》の家有り。差々《やや》田地《でんち》有り、田を耕せど猶食《なおしよく》足らず、亦南北に市糴《してき》す。     四  又一海を渡ること千餘里、末盧《まつろ》國に至る。四千餘戸有り。山海《さんかい》に濱《そ》いて居《お》る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚鰒《ぎよふく》を捕うるに、水、深淺と無く、皆沈沒して之《これ》を取る。     五  東南陸行五百里にして、伊都《いと》國に到る。官を爾支《にき》と曰い、副を泄謨觚《せもこ》、柄渠觚《へいここ》と曰う。千餘戸有り。世々《よよ》王有るも皆女王|國《のくに》に統屬す。郡の使の往來して常に駐《とどま》る所なり。     六  東南|奴《な》國に至るには百里。官を|※馬觚《しまこ》と曰い、副を卑奴母離《ひなもり》と曰う。二萬餘戸有り。     七  東行|不彌《ふみ》國に至るには百里。官を多模《たも》と曰い、副を卑奴母離《ひなもり》と曰う。千餘の家有り。     八  南|投馬《つま》國に至る。水行二十日。官を彌彌《みみ》と曰い、副を彌彌那利《みみなり》と曰う。五萬餘戸|可《ばかり》あり。     九  南、邪馬臺(台)國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬《いきま》有り。次を彌馬升《みましよう》と曰い、次を彌馬獲支《みまかき》と曰い、次を|奴佳※《ぬかて》と曰う。七萬餘戸|可《ばかり》あり。女王國より以北は其の戸數・道里を略載するを得べきも、其の餘の帝國は遠絶にして詳《つまびら》かにすることを得べからず。     十  次に斯馬《しま》國有り。次に己百支《しひやつき》國有り。次に伊邪《いや》國有り。次に都(郡《く》)支《き》國有り。次に彌奴《みな》國有り。次に好古都《こかた》國有り。次に不呼《ほこ》國有り。次に姐奴《つな》國有り。次に對蘇《ついさ》國有り。次に蘇奴《さな》國有り。次に呼邑《こお》國有り。次に華奴蘇奴《かなさな》國有り。次に鬼《き》國有り。次に爲吾《いが》國有り。次に鬼奴《きな》國有り。次に邪馬《やま》國有り。次に躬臣《くし》國有り。次に巴利《はり》國有り。次に支惟《きい》國有り。次に烏奴《あな》國有り。次に奴《な》國有り。此れ女王の境界の盡《つ》くる所なり。     十一  其の南に狗奴《くな》國有り。男子を王と爲《な》す。其の官に狗古智卑狗《くかちひく》有り。女王に屬せず。郡より女王國に至ること萬二千餘里。     十二  男子は大小と無く、皆黥面文身《げいめんぶんしん》す。古よりこのかた、其の使の中國に詣《いた》るもの、皆自《みなみずか》ら大夫《たいふ》と稱す。夏后少康《かこうしようこう》の子、會稽《かいけい》に封ぜらるるや、斷髮《だんぱつ》文身して以《もつ》て蛟龍《こうりゆう》の害を避く。  今、倭の水人、好んで沈沒して魚蛤《ぎよこう》を捕う。文身し亦《また》以て大魚・水禽を厭《はら》うなり。後稍々《のちやや》以て飾と爲《な》す。諸國の文身|各々《おのおの》異る。或《あるい》は左、或は右、或は大、或は小、尊卑差あり。  其の道里を計るに、當《まさ》に會稽|東冶《とうや》の東に在るべし。     十三  其の風俗は淫《みだら》ならず。男子は|皆露※《みなろかい》し、木緜《もめん》を以て頭に招《か》く。其の衣《ころも》の横幅《よこはば》は但々結束《ただけつそく》して相連《つら》ね、略々縫《ほぼぬ》うこと無し。婦人は|被髮屈※《ひはつくつかい》、衣を作ること單被《たんぴ》の如く、其の中央を穿《うが》ち、頭を貫《つらぬ》きて之を衣《き》る。  禾稻《かとう》・紵麻《ちよま》を種《う》え、蠶桑《さんそう》して緝績《しゆうせき》し、細紵《さいちよ》・|※緜《けんめん》を出す。  其の地には牛・馬・虎・豹《ひよう》・羊・鵲《かささぎ》無し。  兵は矛《ほこ》・楯《たて》・木弓を用う。木弓は下を短くし上を長くし、竹前《ちくせん》は或《あるい》は鐵鏃《てつぞく》、或《あるい》は骨鏃《こつぞく》。  有無する所、|※耳《たんじ》・朱崖《しゆがい》と同じ。     十四  倭の地は温暖にして、冬夏ともに生菜を食す。皆徒跣《みなかちはだし》なり。  屋室《おくしつ》有り。父母|兄弟《けいてい》の臥息《がそく》するに處を異にす。朱丹を以て其の身體に塗ること、中國の粉《ふん》を用うるごとし。食飮《しよくいん》には|※豆《へんとう》を用い、手もて食う。  其の死するや棺有れども槨《かく》無く、土を封《ほう》じて冢《つか》を作る。始めて死するや、停喪《ていそう》すること十餘日なり。時に當りて肉を食わず。喪主哭泣《そうしゆこつきゆう》し、他人就いて歌舞し飮酒す。已《すで》に葬るや、家を擧げて水中に詣《いた》りて澡浴《そうよく》し、以て練沐《れんもく》の如くす。  其の行來して海を渡り、中國に詣《いた》るには、恆《つね》に一人をして頭を梳《くしけず》らせず、|※蝨《きしつ》を去らせず、衣服|垢汚《くか》し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人《そうじん》の如くせしむ。これを名づけて持衰《じさい》と爲す。若《も》し行く者吉善《きちぜん》ならば、共に其の生口《せいこう》・財物を顧《こ》し、若し疾病《しつぺい》有り、暴害に遭わば便《すなわ》ち之《これ》を殺《ころ》さんと欲す。其《そ》れ持衰|謹《つつし》まざればなりと謂《い》う。  眞珠・青玉を出す。其の山には丹《たん》有り。其の木には|※《だん》・杼《ちよ》・豫樟《よしよう》・|※《ぼう》・櫪《れき》・投《とう》・橿《きよう》・烏號《うごう》・楓香《ふうこう》有り。其の竹には篠《しよう》・|※《かん》・桃支《とうし》有り。薑《きよう》・橘《きつ》・椒《しよう》・|※荷《じようか》有るも、以て滋味と爲すことを知らず。  |※猴《びこう》・黒雉《こくち》有り。  其の俗事《ぞくこと》を擧《あ》げ行來するに、云爲《うんい》する所有れば、輒《すなわ》ち骨を灼《や》きて卜《ぼく》し、以て吉凶を占い、先《ま》ず卜《ぼく》する所《ところ》を告ぐ。其《そ》の辭《じ》は令龜《れいき》の法の如く、|火※《かたく》を視《み》て兆《ちよう》を占《うらな》う。  其の會同《かいどう》・坐起《ざき》には、父子男女の別無し。人の性、酒を嗜《たしな》む。大人の敬う所を見れば、但《ただ》手を搏《う》って以て跪拜《きはい》に當《あ》つ。  其の人、壽考《じゆこう》にして、或は百年、或は八九十年なり。  其の俗、國の大人は皆《みな》四五婦、下戸も或は二三婦なり。婦人は淫《みだら》ならず、妬忌《とき》せず。  盜竊《とうせつ》せず、諍訟少《そうしようすくな》し。其の法を犯すや、輕き者は其の妻子を沒《ぼつ》し、重き者は其の門戸及び宗族を滅《めつ》す。尊卑各々差序《そんぴおのおのさじよ》有り。相臣服するに足る。租賦《そふ》を收む。邸閣《ていかく》有り。國國に市《いち》有り。有無を交易し、大倭《だいわ》をして之を監せしむ。     十五  女王國より北のかたには、特に一大率《いちだいそつ》を置き、諸國を檢察せしむ。諸國これを畏憚《いたん》す。常に伊都國《いとのくに》に治《じ》す。國中に於て刺史《しし》の如き有り。王、使を遣わして京都《けいと》・帶方郡・諸韓國に詣《いた》り、及び郡より倭國に使せしむるに、皆津《みなつ》に臨《のぞ》んで搜露《そうろ》す。文書《もんじよ》・賜遺《しい》の物を傳送して女王に詣《いた》らしめ、差錯《ささく》することを得ず。     十六  下戸、大人と道路に相|逢《あ》わば、逡巡《しゆんじゆん》して草に入り、辭《ことば》を傳え事を説くには、或は蹲《うずくま》り或は跪《ひざまず》き、兩手は地に據《よ》りて之《これ》を爲す。恭敬《きようけい》・對應《たいおう》の聲を噫《あい》と曰《い》う。比《ひ》するに然諾《ぜんだく》の如《ごと》し。     十七  其の國、本亦《もとまた》男子を以て王と爲し、住《とどま》ること七八十年なり。倭國亂れ、相|攻伐《こうばつ》して年を歴《ふ》る。乃《すなわ》ち共に一女子を立てて王と爲す。名を卑彌呼と曰う。鬼道に事《つか》え、能く衆を惑わす。年|已《すで》に長大なれども、夫壻《ふせい》無し。男弟有り。佐《たす》けて國《くに》を治む。王と爲りてより以來、見《まみ》ゆる有る者少なし。婢《ひ》千人を以て自ら侍《じ》せしむ。唯《ただ》男子一人有りて、飮食を給し、辭を傳えて居處に出入す。宮室・樓觀《ろうかん》・城柵《じようさく》、嚴《おごそ》かに設けられ、常に人有り、兵を持ちて守衞す。     十八  女王國の東、海を渡ること千餘里にして、復《また》國有り。皆《みな》倭種《わしゆ》なり。  又《また》侏儒《しゆじゆ》國有り。其の南に在り。人の長《たけ》三四尺にして、女王を去ること四千餘里なり。  又裸《またら》國・黒齒《こくし》國有り。復其《またそ》の東南に在り。船行一年にして至る可し。  倭の地を參問《さんもん》するに、絶《た》えて海中|洲嶋《しゆうとう》の上に在り。或は絶え、或は連なり、周旋《しゆうせん》五千餘里|可《ばかり》あり。     十九  景初《けいしよ》三年六月、倭の女王、大夫《たいふ》・難升米《なしめ》等を遣わし、郡《ぐん》に詣《いた》らしめ、天子《てんし》に詣りて朝獻《ちようけん》せんことを求む。太守劉夏《りゆうか》、吏を遣わし、將《も》って送りて京都《けいと》に詣らしむ。  其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、  親魏倭王卑彌呼《しんぎわおうひみこ》に制詔《せいしよう》す。帶方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫|難升米《なしめ》・次使|都市牛利《つしごり》を送り、汝が獻ずる所の男の生口四人・女の生口六人・班布《はんぷ》二匹二丈を奉り、以て到らしむ。汝が在《あ》る所|踰《はる》かに遠きに、乃《すなわ》ち使を遣わして貢獻す。是れ汝の忠孝にして、我《われ》甚だ汝を哀《あわ》れむ。  今汝を以て親魏倭王《しんぎわおう》と爲し、金印|紫綬《しじゆ》を假《か》し、裝封《そうふう》して帶方の太守に付して假綬《かじゆ》せしむ。汝其れ種人《しゆじん》を綏撫《すいぶ》し、勉《つと》めて孝順を爲せ。  汝が來使難升米・牛利、遠きを渉《わた》りて道路に勤勞《きんろう》せり。今、難升米を以て|率善中郎將《そつぜんちゆうろうしよう》と爲し、牛利を率善校尉《そつぜんこうい》と爲し、銀印青綬を假し、引見勞賜《いんけんろうし》して遣わし還らしむ。  今、絳地交龍錦《こうじこうりゆうのにしき》五匹・|絳地※粟※《こうじのすうぞくのけい》十張・|※絳《せんこう》五十匹・紺青《こんじよう》五十匹を以て汝が獻ずる所の貢直《こうちよく》に答う。又特に汝に紺地句文錦《こんじのくもんのにしき》三匹・|細班華※《さいはんのかけい》五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡《どうきよう》百枚・眞珠・鉛丹《えんたん》各々《おのおの》五十斤を賜り、皆裝封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受《ろくじゆ》し、悉《ことごと》く以て汝の國中の人に示し、國家の汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重に汝に好物《こうぶつ》を賜うなり。     二十  正始《せいし》元年、太守|弓※《きゆうじゆん》、建中校尉梯儁《けんちゆうこういていしゆん》等を遣わし、詔書印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拜假《はいか》し、竝《ならび》に詔《みことのり》を齎《もたら》して、金帛・|錦※《きんけい》・刀・鏡・采物《さいもつ》を賜う。倭王使に因《よ》りて上表し、詔恩《しようおん》に答謝す。  其の四年、倭王|復使《またし》の大夫《たいふ》伊聲耆《いせき》、掖邪狗《えきやく》等八人を遣わし、生口・倭錦《わきん》・|絳青※《こうせいのけん》・緜衣《めんい》・帛布《はくふ》・丹《たん》・木《もくふ》・短弓矢を上獻す。掖邪狗等、率善中郎將の印綬を壹拜《いはい》す。  其の六年、詔して倭の難升米に黄幢《こうどう》を賜い、郡に付して假綬せしむ。  其の八年、太守|王※《おうき》、官に到る。  倭の女王卑彌呼、狗奴國《くなのくに》の男王|卑彌弓呼《ひみくこ》と素《もと》より和せず。倭の載斯烏越《さいしうえつ》等を遣わして都(郡)に詣り、相攻※する状《さま》を説かしむ。塞曹掾史張政《さいそうえんしちようせい》等を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拜假し、檄《げき》を爲《つく》ってこれを告喩す。  卑彌呼|以《すで》に死す。大いに冢《つか》を作る。徑百餘歩あり。徇葬《じゆんそう》せらるる者|奴婢《ぬひ》百餘人なり。  更に男王を立つるも國中服せず、更々《こもごも》相|誅殺《ちゆうさつ》す。當時千餘人を殺せり。  復《ま》た卑彌呼の宗女、壹與の年十三なるを立てて王と爲す。國中遂に定まる。政等《せいら》、檄《げき》を以て壹與に告喩す。壹與、倭の大夫率善中郎將掖邪狗《えきやく》等二十人を遣わし、政等の還るのを送らしむ。  因って臺《たい》に詣り、男女の生口三十人を獻上し、白珠《はくしゆ》五千孔・青大勾珠《せいだいこうしゆ》二枚・異文雜錦《いもんのざつきん》二十匹を貢《こう》す。     2  翌日曜の朝。桂介は、心ゆくまで眠りをむさぼるつもりであったが、枕元の電話がしつこく鳴った。  出ると、野々宮|斐美香《ひみか》である。いっぺんに眠気が覚めた。 「すみません、おやすみのところ」  と、彼女はいった。 「いや、昨日はどうも」 「あの、実は……」  と、用事を頼まれてしまった。  千歳署に例の手紙とスケッチを届けるので、一緒に行ってもらえないかというのだった。他ならぬ彼女の頼みだ。男として断れない。男が美人に弱い習性は、桂介にも当てはまる。 「わかりました」  と、二つ返事でいった。「すぐ迎えにいきますから」  さっそく身支度して、近くの貸し駐車場に……。愛車が置いてあるのだ。  国立画伯の家に行き、斐美香を拾った。  高速に乗り入れて、スピード・メーターを上げる。4WDだから加速が安定している。助手席の美人には、加速が似合う。桂介は、かなり気持が浮き浮きしていた。嬉しいことに、彼女も車に詳しかった。アメリカのハイウェイをよく飛ばしているらしい。話に熱中すると、彼女の言葉には英語が交じる。  一時間ほどで、千歳署に着く。  酒田刑事は、 「日曜日なのに、お越しいただいてすみませんなあ」  彼女を見た視線を桂介に移して、 「先日はどうも」  捜査課長に向かって、 「このかたです、先日、話したのは……」  桂介が北門タイムスの名刺を差しだすと、課長も名刺をくれて、 「お噂は……」  彼が、ブン屋にもかかわらず、ばかに愛想がよかった。警察庁にいる実兄のことを、酒田刑事が話したものにちがいない。 「どうぞ」  傍らの、半分こわれかけたソファーを勧められた。 「これですが」  野々宮斐美香は、持参した父親の手紙とスケッチを渡す。 「電話で聞いた国立先生の話によると、例のレシートの文字が、はっきりしたそうですね」  と、酒田刑事。  桂介が、その三文字が�マ�、�臍�、�祖母�にちがいないと、理由とともに教えた。  貫禄のある課長は、首を傾げたが、 「参考にさせていただきます」  とだけいった。 「それから」  と、桂介は、昨日の会談をかいつまんで話し、 「この荒尾十郎さんというかたは、かなり邪馬台国については専門的な知識をもっているのですが、ひょっとすると、野々宮画伯は、新宮へは行っていないのかもしれない、と推理しておりましたが」 「ほう」  課長は目を彼に向けて、聴いていたが、それ以上はなにもいわなかった。  やがて、会議があるとかで、課長は席を立った。居残った酒田刑事に向かって、 「で、その後の捜査は進展しておりますか」  と、桂介が訊くと、 「いや……。しかし進んでいないわけではありません」  と、答えた。 「京都から新宮への足取りはどうなっておりますか」 「まだ、目撃者が出ません。画伯のキャンピング・カーを写真にして、聞き込みをしているはずですがねえ」 「範囲を広げてもだめですか」 「それは今、あちらに頼んでやっております」  ちょっと渋い顔をした。 「変ですね」 「まあ」  酒田刑事は言葉少なかった。  すると、それまで黙っていた斐美香が、 「あの、刑事さん、あたし、お話してもいいですか」 「どうぞ」 「素人考えかもしれませんが」 「どんな話でもかまいませんよ、お嬢さん」 「実は、父の葬儀のときに、あたし、秘書の安原さんから、ちょっと気になることを聴きました」 「ほう、安原令子さんですな」  刑事は手帳を見ながらいった。 「安原さんが、あたしにそっというには、……あの、こんなことを話してもいいのかしら。あたし、他人を傷つけるのは好きじゃないのですが」 「だれだってそうですよ。さ、どうぞ」  促されて彼女は、自分の叔父が野々宮画伯に借金の申し込みをしていたことを告げた。 「叔父さんというと、野々宮|数馬《かずま》さんですな」 「はい」  野々宮画伯の実弟になるこの人物は、大阪で、小さな出版社を経営しているそうだ。 「あたし、詳しいことは知りませんけど、まともとは決していえないような本とか、アンダーグラウンドな雑誌を出版しているそうですが、会社がうまくいかないらしくって、それで父にお金を借りにきたのだそうです」 「アンダーグラウンドというと」  酒田刑事が訊く。 「ええ、男のかたが喜ぶ本ってあるでしょ」 「ああ、ビニ本のことですな」  酒田はあっさりといった。 「日本ではそういうんですか」 「ええ、ビニール本のことですよ。で、それはいつのことですか」 「昨年の十一月だったそうです。詳しいことは、安原さんに訊いてください」 「ふん……」  酒田刑事は目を光らせた。「で、……」 「安原さんの話ですと、父がそんなお金はないというと、喧嘩になったんですって」 「なるほど」 「父は若いころ、まだ無名で絵がほとんど売れなかったときに、この叔父にずいぶん援《たす》けてもらったことがあるみたいです。作品を買ってもらったりして」 「ほうほう」  刑事は相槌をうつ。「参考になります。他には?」 「ありません」 「野々宮先生には、お弟子さんがおられますな、大森|盛児《せいじ》さんという」 「はい」 「家政婦の大森多津子さんとは親子だそうですね」 「ええ。そんな関係で、父がめんどうを見て、美術大にも学資を出して入れ、画家に育てた人ですわ」 「この人をどう思います?」 「最初は少なくとも、父も盛児さんの才能をかっていたと思います。ですから、美大を出てまもなく、父が推薦して、独画協会の会友にしたのですけれど、その後は伸び悩んでいたみたいです」 「もう、四十二歳だそうですが、二十年以上も会友のままだそうですね」 「ええ」 「絵が下手なんですか」 「ちがいます。父にいわせると上手すぎるんですって。器用すぎるというのでしょうか。けど、絵描きにとって大事なのは個性だって、いつもいっておりましたわ」 「なるほど。わたしはよくわからないが、美術の世界はそうなんでしょうな。いや、なんとなくわかります。よく、下手ウマという言葉があるが、なるほどね」 「じゃ、母親の大森多津子さんはどういう女性ですか」  と、桂介が訊いた。 「両親が離婚したのは、あたしが小学校のときでしたけど、その後で多津子さんがうちにきて、あたしは彼女に育てられたようなものですわ」  この、大森盛児の母親である家政婦の多津子は、夫と死別し、知人の紹介で、野々宮家に住み込んだものらしい。  気がつくと昼をすぎていた。二人は千歳署を辞した。 「斐美香さん、今日は、他に用事がありますか」  車に乗り、シートベルトをつけながら彼は訊いた。 「いいえ」 「支笏《しこつ》湖という神秘な湖水が近くなんですよ。まだ冬ですから、訪れる人も少ないと思いますがね、行ってみませんか」 「支笏湖なら知っています。でも、冬の支笏湖は知りません。連れてってください」  桂介は車をスタートさせ、市街地を抜け、原野を行く道を走らせた。  人影のほとんど絶えた真冬の山湖は、神秘的であった。  湖畔の店で食事をしながら、次第に打ち解けたムードになった。 「あたしが死にたくなったら、きっとここにくると思うわ」  斐美香は物騒な言葉も漏らしたが、むろんジョークだろう。  コーヒーを飲み、コーヒーをお代わりして、いろいろ話したが、彼女が心に病いを持っていることを桂介は知った。やはり、少女時代に経験した両親の離婚のせいで、彼女は、癒《いや》しがたい傷を心に持っているらしい。 「あたしって、夜がとっても怖かったわ。今でもそうなんです。多津子さんは居ましたけれど、実の母じゃないんですもの」 「いい女《ひと》らしいですね」  と、桂介はいった。 「あたしは、あの女《ひと》に感謝しているわ。でも、心からじゃないの。あたしはいつも、家の中に他人がいるような、落ち着けない気持だったわ。ほんとういうと、それがいやで、大学の志望校はわざと東京以外を選んだんです」 「すると大学は?」 「関西ですけど」  さらに、彼女は、大学の途中でアメリカへ渡ったのだそうだ。 「修士をとったらどうするつもりですか」 「そのまま残るか、日本に戻るかはまだ決めていないけど、どうしようかしら」  と、笑う。 「アメリカには友だちも大勢なんでしょ」 「ええ。男も女もね」  晴れていた空が急に曇り、雪が舞いはじめた。薄墨色をした支笏湖が、姿を隠す。 「岩都さんは、まだ一人なんですって」 「ええ」 「あたし、国立先生から、あなたのことをどう思うかって訊かれましたわ」 「そうですか」  桂介は、ちょっと目を瞬《またた》かせた。  言葉を待ったが、彼女は、それっきり何もいわない。桂介は、それとなく訊いた。 「……その家政婦の多津子さんと野々宮先生との間に、なにかあったのとちがいますか」 「一つ家に一緒に住んでいるのですもの、何かあってもおかしくないわね」  と、彼女は微妙ないいかたをした。 「幾つなんですか」 「多津子さんのこと?」 「ええ」 「母より上ですわ」 「先生より下ですか」 「ええ、ずうっと。今、六十ぐらいかしら。でも、うちに来たときは四十代よ。母よりは美人じゃないけど、母にはないものがあったんじゃないかしら」 「お父さんにとって?」 「あたし、中学生のときに、見たんです。父と多津子さんが裸で一緒にいるところを……」 「そうですか」 「だれにもいわなかったけれど、そのときから、あたしは父が嫌いになったんです」  桂介は、だまっていた。それが、家を出たいと彼女が思うようになった原因になったのだと考えながら……。     3  二人は車に戻った。千歳方面に戻ろうとすると、彼女は、もう少しドライブをしたいといった。桂介は湖畔に沿って車を走らせる。  山の中のせいか、天候は気まぐれである。晴れたかと思うと、また吹雪いてきたりする。  道を途中まで行き、道端に駐車して休む。帽子のような形をした樽前山《たるまえさん》が、黒っぽい湖面を隔てた対岸にそびえていた。  いきかう車もほとんどない。しーんと静まり返っている。 「冬の支笏湖って見詰めていると、引き込まれそうな気がするわ」  と、野々宮斐美香はいった。 「ここはカルデラ湖で、深いですからね」  と、答えると、彼女はシートの背もたれを、後ろへ水平に倒していた。 「あなたも……」  と、彼女はいった。  下から彼を見上げるその目には、誘う色が含まれていた。瞳が、濡れているようで、きらきらしているのだった。  ルージュが引かれて輪郭のはっきりしている唇は、やや厚ぼったくて、軽く開いていた。  桂介の視野に、短い革スカートから伸びている斐美香の脚線が映る。  すんなりと伸びたその脚は、黒いストッキングに包まれていた。  桂介も、シートを倒して横たわった。フロントガラスの中に、湖岸の裸になった樹々の梢が見え、空は鈍色《にびいろ》である。  また、手を伸ばして彼女が誘った。最初は握りあっていたが、引き寄せて自分の胸に当てた。  セーターの上からであったが、斐美香の膨らみの感触が、桂介の掌に伝わってきた。  桂介は大胆になった。体を横向きにして、上体を彼女の上に重ねて、唇をあわせた。思ったとおり、彼女は拒まぬどころか、両腕を彼の首に巻き付けてきた。  桂介は、手を移動させ、スカートのジッパーを探って押し下げる。セーターの下へ手を入れて、スリップの柔らかく薄い布地の上から乳房に触れた。  かなり長いキスだった。キスは彼女にリードされ、彼女のほうが上手かった。  やがて、彼女のほうから身を離す。 「帰りましょう」  高まっていた欲望に水を差されたような気がしたが、桂介は従った。  小雪の中を、車を走らせ、千歳に戻る。高速に乗り入れたが、まだ、彼女は何もいわなかった。彼女の横顔は、何事もなかったようである。 (昨日、荒尾さんがいってたとおり、彼女はプレイ好きの女性らしいな)  とだけ、桂介は思った。  それにしても、野々宮斐美香は、桂介の初めて経験したタイプの女性である……。  高速を出ると、道が混みはじめた。信号を待ちながら、話しかけると、ようやく笑顔を向けた。 「あたしが好き?」  と、いった。 「ええ」 「そうかしら。あたしって岩都さんの好みじゃないと思うけどな」 「じゃ、どういうタイプが好きだって思いますか」  冗談をいう余裕を彼は取り戻す。 「あたしみたいじゃなくって、もっと、しとやかなお嬢さん」 「いや、そんなことはないですよ」  と、彼は答える。「斐美香さんのような……」といいかけると、 「ね、昨日あった荒尾さんってかた、どんなかた?」  彼女は、話題を変えてしまう。 「どうって、おもしろい人ですよ」 「あのかた、犯人を見付けてくれるかしら」 「ええ、多分ね。昨日も、あれから真犯人を探す手掛かりがあることがわかったんですよ」 「ま、それはどんなですの?」 「野々宮先生は、生前、荒尾さんに会ったとき、邪馬台国のことで話しあったんだそうです」 「それで……」  彼女が促す。 「たとえば、『魏志倭人伝』の中に、�始度一海千餘里�というのがあるのですが、これが手掛かりになるらしいですよ」 「まあ、どうして?」 「つまりね、お父さんが行かれた本当の邪馬台国さえわかれば、犯人もあがるだろうということですよ」 「スケッチの場所のことですか」 「ええ。その場所は、荒尾さんの勘だと新宮やその付近じゃないらしい」 「じゃどこなの?」 「さあ、答えはまだですよ。ぼくらにわかるのは、�始度一海……�の謎が解けてからです」 「�始めて一海を渡る�がヒントだっていうのね」 「ええ」  なぜか、野々宮斐美香は、ふたたび憂鬱そうな表情に戻り、黙りこくった。  週のあけた月曜から、桂介は、急に忙しくなった。�街づくり百選�の仕事で、道内を出張して回ったからだ。この企画の選考委員には、国立画伯も加わっていた。  打ち合わせのために会ったとき、国立画伯は、野々宮斐美香が東京に戻ったと教え、 「君には、くれぐれもよろしくといって帰ったよ」  と、伝えた。 「彼女、いつアメリカに戻るのですか」  と、訊くと、 「事件が解決するまでは、帰らないんじゃないだろうか」 「電話してみます」  と、彼はいった。 「ああ、そうしてくれるとありがたい。彼女は今、孤独だからねえ」 「ぼくの杞憂《きゆう》かもしれませんが、ちょっと心配なんですよ」 「ほう、どうして?」 「性格のかなり強い女《ひと》だから、自分で犯人捜しをはじめるんじゃないかって、そんな気がするからですよ」 「うん、あり得るかもな」 「しかし、もし、真犯人が、野々宮家の近い縁にいるとすると、いや、その可能性のほうが強いとぼくは思いますが、……だとすると危険でしょ」 「うん、危険だな」  と、国立画伯もうなずき、「わたしからも、あまり動きまわるなと忠告しておくよ」 「その後、捜査は手詰まりのようですね」 「……らしいね。荒尾さんにはあれから会いましたか」 「いいえ」 「今、札幌を留守にしているらしいね。奥さんにも行き先きを告げずに……」 「外国ですかね。あの人はしょっちゅうでしょ」 「ま、また、何かわかったら知らせてくれたまえ」  桂介は、画伯と別れた足で、社に戻った。  すると、武丘部長が待ちかねたように彼を、自席に呼んだ。 「君を探していたんだ」 「すみません、国立先生と打ち合わせがあったものですから」 「百選のほうは、すんだかい?」 「はい。これから残業して紙面を作ります。けど、整理部との打ち合わせもありますから、二、三日はかかります」 「その後の仕事は?」 「今のところはあいてますが」 「じゃ、君に頼むか」 「なんでしょうか」 「さっきの部長会議で決まったんだがね。文化部の仕事とは別に、特企部でも邪馬台国をやることになったよ」 「それはまたどうしてですか」  桂介はびっくりした。 「明日の朝刊に、各紙一斉に報道されると思うがね、九州の吉野《よしの》ケ里《り》というところで、どえらいものが見付かったらしいんだ」 「はあ」 「で、ちょうど、千歳の事件の話を聴いていたもんで、即座に、この企画を思いついたというわけなんだ。ところで、あれはどうしたい?」 「捜査の進展なら手詰まりらしいですよ」 「そうか。ま、それはそれとして、邪馬台国、連載十回ぐらいで、君に書かせてやろうと思うが、どうかね」 「署名原稿ですか」 「むろんさ」 「よろこんで、やらせてもらいましょう」  と、桂介は答えた。 「よし、じゃ、決まりだ。連載は一応四月に入ってからだから、時間は十分だろう。九州出張も含めて、来週までに、取材予定とだいたいの企画書を作って出したまえ」 「わかりました」  連載十回の署名記事といえば、北門タイムスでは大きな仕事だ。自然、張り切らざるを得ない桂介であった。  第三章 容疑者たち     1  荒尾十郎は、ニューヨークから帰国したばかりだった。二月二十二日のことである。  のんきにしていて知らなかったが、二十四日は大喪の礼というのが東京であるそうで、都内のホテルはどこも満員だった。やむをえず、以前泊まったことのある上野|広小路《ひろこうじ》のビジネス・ホテルに電話して、ようやく部屋にありついた。  荒尾のニューヨーク詣《もうで》は、ここ三年ほどの習慣である。  だいたい、年に二回は出掛けるが、これには理由がある。航空券をバカ安く手に入れることのできるルートが、あちらにできたからだ。その代わり、ニューヨーク発の往復チケットという制約がある。最初の片道分は捨てることになるが、次回からは往復十万なにがしですむ。札幌から沖縄に行ける料金なのだ。東京〜札幌間も何分の一かで済んでしまう。  今度のニューヨーク行きは、妻には内緒だった。使ったのが安い大韓航空。妻は飛行機は落ちるものと決めているからだった。  帰途は、ソウルに寄った。車を飛ばして仁川《インチヨン》へも行ってきた。このあたりが、昔、帯方郡のあったあたりだからだ。海辺に立ってわかったが、なるほど、古代港にはふさわしい天然の良港であるとの印象を、彼は抱きつつ、邪馬台国の時代に思いを馳せた。  狭苦しい安ホテルのベッドから起きだして、戸口をみると、朝刊が押し込んである。手にとって目をとおす。朝日だった。ページをめくるうちに、その記事が飛び込んできた。 「おやや、これは大変だッ」  と、つぶやきながら、彼はその九州吉野ケ里遺跡発掘の記事に目を奪われていた。  不勉強のため、彼にとっては初耳の遺跡だが、なんと、ここが『魏志倭人伝』に出てくるクニの一つである可能性が高いと書いてあるのだ。新聞に載っていた出土した剣の写真を見て、彼は、自然にそわそわしてくる。古代史ファンとしては、見過ごせないニュースである。  荒尾は電話をとって、早速、ダイヤルした。かけたのは北門タイムスである。岩都桂介が電話にでる。 「荒尾です」 「ああ、先生。ずうっと行方不明だったんですね」 「ちょっとね、ニューヨークまで」 「お仕事ですか」 「まあね、いや充電ですよ。あの街へいくと、なにかやる気がでてくるのでね」  と、荒尾はいった。  これは荒尾にとっては正直な気持だ。たっぷりと名作を見せてくれる美術館を回ったり、ブロードウエイで芝居や映画をふんだんにみられるニューヨークの魅力は、また格別である。 「ニューヨークはいかがでした?」 「えらく寒かったので、毎日、湯豆腐で熱燗《あつかん》やってましたよ」  日本レストランがやたらと多いので、荒尾のような和食党にも全く不自由はないのだ。 「強盗には遭わなかったですか」  と、電話口で岩都は彼を揶揄《やゆ》した。 「日本の新聞が書き立てるほど、ニューヨークは危険じゃないですよ」  と、荒尾は答えた。「けど、厳しい寒空の下にホームレスが大勢いたり、ギャングの撃ち合いがあったり、ホテルの近くで殺人事件があったりね、結構、刺激的な毎日でしたよ」 「そうですか」 「人から聞いた話だけど、コカインなんかが流行っていたりしてね、ま、ぼくは文明批評家じゃないけど、未来のディストピアをかいま見せてくれますよ」 「嫌煙運動があれほど盛んなのに、麻薬の追放はできないんですかね」 「らしいね。何しろ昨年は、史上最高の約二千件の殺人事件が起きたNYですがね、その元凶はクラックらしい」 「なんですか、それ?」 「いま、あちらで流行っている新型の麻薬です。どうも若者の間で流行しているらしい。こいつは、静脈注射するとほぼ瞬間的に陶酔状態になるという代物さ。そのせいで、日に二件はこのクラックがらみの殺人が発生しているというよ」  話題を変えて、「ところで今朝の新聞で『魏志倭人伝』の遺跡発見のニュースを読んだけど……。お宅の新聞もですか」 「吉野ケ里のことですか」 「そう。えらいものが出てきたね」 「その件で、ぼくは先生に相談したいのですが、いつ札幌にお帰りですか」  と、岩都は、特別企画の件を、手短に話し、「ぜひ、相談に乗ってください」と頼む。 「いいですよ。しかし、帰札は大喪の礼が終わってからにするよ」  と、彼は答えた。「ところで、例の事件、その後、進展あったですか」 「いいえ、という返事しかないですね」 「困りましたな」 「例のポストカードに描かれた、野々宮画伯の絵ですがね、あれは酒田刑事さんに届けて、調べてもらっているのですが、新宮付近には、該当する場所はないそうですよ」 「ああ、そう」 「捜査の範囲を広げているそうですが、何ヵ所かそれらしい場所はあるにはあるんですが、これだと決定的な景色はないらしいですね。千歳の捜査本部では、写真ではないし、スケッチだからかなりのデフォルメがなされているだろうということで、あまり重視していない口振りです」 「だろうね」  荒尾はいった。 「それで、もっぱら、画伯のキャンピング・カーの足取りをつかむことに専念しているらしいが、この線もうまくは進んでいないみたいです」 「だろうね」  と、荒尾はまた繰り返した。 「やっぱり、野々宮画伯は、先生の考えどおりに、新宮には行っていないのでしょうかねえ」 「それはまだなんとも……」  荒尾は電話口に向かって言葉を濁し、「容疑者のアリバイはどうなっています?」と訊く。 「画伯の回りにいる関係者のことですか」 「そうですよ。たとえば、借金を申し込んで断られたという野々宮画伯の弟のことですが」 「あれ、野々宮数馬のことをご存じなんですか」 「ええ。札幌を発つ前に、電話がありましたからね」 「国立先生からですか」 「いや、あのお嬢さんからですよ」 「ヘッ! 斐美香さんが……? ああ、そうでしたか、直接、先生にも電話したのですか」 「ええ。用件は別にもあって、そのとき彼女、君から聴いたといってね、例の�始度一海千餘里至對馬國�の件を訊《たず》ねてきたんですよ」 「……?」 「それで、ぼくが、野々宮画伯と昨年秋にお会いしたとき、そう話していた、『魏志倭人伝』を読み解く鍵もそこにあると話しておられたといいますと、彼女はなにか安心したように電話を切ったのですがね……」 「ああ、そんなことだったのですか」 「彼女とはその後、会ってますか」 「いいえ、東京に戻りましたので。電話は幾度かかけているのですが、いつも留守でして……。家政婦がお嬢さんは旅行中だというので行き先をききましたが、わからないらしいのです。多分、新宮あたりへ、例のスケッチの場所を探しに行っているのだと思いますが」 「なるほど。で、どうなんですか、その野々宮数馬氏のことは?」 「酒田刑事さんとは、その後、何度か千歳へ出掛けて会って、話しておりますが、斐美香さんのいうとおりらしいです」 「ほう、というと?」 「わかりやすくいうと、出版社といいましてもね、きわどいビニ本なんかを出している会社らしいのです」 「なるほどね」 「しかも、警察になんども挙げられたこともあるらしい」 「ふーん」 「で、マークしているらしいんですよ」 「彼のアリバイは?」 「いいえ。というよりか、暮のクリスマスから正月にかけて、彼は白浜温泉で撮影の仕事をしているのです」 「白浜なら和歌山県だね」 「和歌山の南にある有名な紀伊半島の温泉地でしょう」 「そうです。大阪から近いし、新宮にも近い」 「一応、宿とかスタッフとかのアリバイ証言はあるのですが、深夜宿を抜け出すこともできると、捜査本部は考えているようです。海岸沿いを走っても、百キロ以内ですからね、新宮までなら」 「なるほど。じゃ、彼が今の段階では、容疑者ナンバーワンですか」 「と、思います」 「じゃ」  荒尾は電話を切り、しばらく考え込んだ。     2  二十三日の東京は、街から人がいなくなったように静かだったが、荒尾はタクシーを足がわりにして、精力的に動きまわった。道路が空いていて、能率がいい。  まず、荻窪の野々宮画伯の家に行き、家政婦に会った。口実は、いくらでもつけられた。自分は先生のファンで、お線香を上げさせてくださいと頼み、仏壇に香典を包んで置いた。しかし、名前は告げたわけではない。  焼香が済み、対面して故人の作品を誉《ほ》めると、大森多津子は嬉しそうに話に乗ってきた。言葉の端々にも、彼女が、故人を尊敬していたらしい気持が表れていると、荒尾は思った。  しきりに涙ぐみ、いいかたでしたのにと繰り返すのだった。 「あなたはこれからどうなさるのですか」  と、訊ねると、 「息子がおりますが、当てになりませんの。郷里へ帰って、妹が向こうにおりますので、一緒に暮らします」  と、答えた。 「息子さんは、野々宮画伯のお弟子さんでしたね」 「はい。でも、先生の後継者には到底なれませんわ。あれが、曲がりなりにも、独画協会の会友になれたのも、先生のお引き立てがあったからですわ。先生が亡くなられた以上は、あまり画家としては見込みがないんじゃないかと思っておりますわ」  大森多津子の息子に対する評価は、厳しかった。  長年、画家の家で家政婦をしているうちに、自然と目が肥えたのだろうか。 「郷里はどちらですか」  話題をかえて訊くと、 「九州の延岡でございます」 「宮崎県の……?」 「はい」 「高千穂《たかちほ》峡が近いところですな」 「はい。暮れから正月にかけて、今年も、お暇を戴いて帰りましたが、小さな街でなんの取りえもございません。でも、年中温暖ですから、隠居をするにはいいところですわ」  と、彼女は答える。 「今日は、秘書のかたは?」  と、訊くと、 「安原さんでしたら、先生がこんなことになりましたので、ご両親のところに、先のことを相談に帰っております。きっと、お見合いの話じゃないでしょうか」 「ほう。ご両親は東京ではない……」 「ええ。松阪です」 「というと、牛肉のうまい三重県の……」 「ええ、あの松阪牛の松阪です」 「本居宣長の寓居のあったところでもありますな」 「ええ、おうちはそのすぐ傍らにございましてね、暮れの休暇のときにも、安原さんに一緒しませんかと誘われましたわ」 「じゃ、安原さんも暮れには帰省されたのですね」 「はい、先生は、暮れから正月は、いつもお出掛けですし、あたくしも安原さんも休みをとることにしておりますの。でも、それが何か?」 「いや……」  荒尾は言葉を濁した。  だが、松阪に帰省していたとすると、ここから新宮は、白浜同様に近い……。  話題をかえて、他にも二、三の質問をし、あまり長居しては怪しまれると思い、彼はその家を辞した……。  その足で、今度は銀座に向かった。大森多津子から、画商の北丸安国が、銀座にあるぎゃるりー北丸に来ているはずだと聞き出したからである。  本店は京都だが、支店を西銀座に出しているのだ。  ここで、小規模ながら野々宮太郎の回顧展をやるらしい。その準備で店のシャッターは閉まっていたが、ビルの脇から入って、声をかけると中に入れてくれた。  荒尾は、またしても適当な嘘をつき、噂をきき北海道からきた者だが、明日には帰るのでぜひ見せて欲しいと頼む。 「それはわざわざどうも」  と言って、荒尾が買い気のある客と踏んだのか、中年の男が名刺をくれた。ちょっと苦味ばしったこの中肉中背の男が、北丸安国である。  大小の絵は、画廊の床にまだ置かれていたが、じっくりとみる。それなりに、鑑賞眼はあるつもりだ。  しかし、用意されている八号以下の作品は、ちょっと力が落ちているようである。 (病気などをするとよくこういうことがあるが、それとは少しちがうぞ)  と、彼は内心思った。  言葉ではうまくはいえない、勘のようなものである。  大作はさすがに力がある。 「傑作ですなあ」  といい、その百号の前に立ち止まった。 「阿蘇《あそ》ですな」  とつぶやいて、目を凝らす。「実に雄大だ……」  感じたままを正直にいうと、 「十年ほど前のもんです」  と、画商はいいながら、色刷りした立派なパンフレットをくれた。「これに載っております」  ページを開く。題は『阿蘇五岳』、阿蘇連峰を遠望した作品である。 「どこから描いたものですか」 「南阿蘇ですよ」  と、画商は教えた。 「ほう、こんなふうに阿蘇が見える場所があるんですなあ」  一巡りしたところで、 「実は、生前、野々宮先生には面識がありましてね、桜島を描いたものを一点持っているのです」  と、片隅の裸婦デッサンを指し、「あれはお幾らで」 「ほう、お目が高い。野々宮先生の裸婦は珍しいんですよ」 「ええ、わたしもそう思いまして……」  下着を着けた若い女性が、カウチにすわってる構図であった。ストッキングを片方だけガーターで吊っているが、妙にエロチックでもある。 「モデルはお嬢さん?」  と、訊いてみた。 「いえ、秘書をしている女性ですよ、きっと」 「ああ、安原令子さん……」 「ご存じで?」 「ええ、まあ」  と、言葉を曖昧《あいまい》にして、「国立先生の後輩だって伺ったことがあるのです」 「ほう、国立登さんのお知り合いのかたでしたか、お客様は……」 「ええ、地元なもんでご昵懇《じつこん》にさせていただいておりますが」 「ああ、そうですか。先生は、うちでも展覧会を……」 「……だそうですね。で、お値段は?」 「そういうお客様なら、特別にして、二十万ではどないでしょうか」 「戴きます」  荒尾は、あっさりうなずいて、「小切手でかまいませんか。作品は、またいずれ上京したときに取りにうかがいますが」 「はい。では、ここは散らかっとりますから、事務所のほうへ」  小切手を書いて、渡す。 「おおきに……」  画商からは、受け取りを貰う。  北丸安国は、気をよくしたのか、店の女の子に言い付けて、コーヒーを入れさせる。 「おや、これは……」  そのとき、荒尾は、ふと来客用テーブルの上に置かれていた、本をのぞきこむ。「いいですか」 「ええ、どうぞ」  本は、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』。ちょっと知られている著書である。 「野々宮画伯とは、生前、この邪馬台国のことでお話を伺ったことがありますが、あなたも同好の士でしたか」  と、にこにこ笑って訊く。 「ええ、まあ」 「実は、ぼくもでしてね……。邪馬台国には大和説と九州説がありますが、あなたはどちらですか。昨日の新聞によると、例の吉野ケ里……何かどえらいものが出土したようですが、やっぱり九州なんでしょうかねえ」 「さあ、どないでしょうか」 「ぼくは、大和説でしてね。その点では野々宮先生と対立したことを覚えておりますよ。あなたは、どちらですか」  と、依然、屈託なく笑い顔を維持していう。 「ええ、わたしは、この古田先生のように、邪馬台国はなかったと思うとりますがねえ。しかし、野々宮先生は、変わっておられましたな」 「といいますと、沖縄とか、フィリッピンとか」 「いいえ、そんなに奇抜やありまへん。新宮説ですよ」 「ほうほう。ああ、それで暮に新宮へ行かれて、不幸な目に遭われたわけですな」 「ええ、まあ」  画商は、ちょっと落ち着きのない目をした。  荒尾は、相手の目を覗き込むようにする。 「新宮へご一緒すればよかったんですが、残念です。暮の二十六日に京都の店でお会いしたときは、元気でしたのに……、先生に誘われたんですが、わたしはあいにく福岡に用事がありましてね。実は、福岡に新しく店を出す計画があるもんですから」 「ああ、なるほど、福岡は韓国、台湾、香港、中国などとともに将来、環東シナ海経済圏を形成する可能性がありますからな、これから発展する街ですからね」  と、相手に合わせてうなずくと、 「ええ、その代わり、土地の値段もずいぶん上がっとりますよ」 「ま、ある意味では邪馬台国時代が再来するともいえますなあ」 「といいますと? ああ、なるほど……。当時は、盛んに大陸、朝鮮半島との交流があったわけやから、たしかにいわれるとおりですなあ」  と、そのとき、四十がらみの客が、事務所に顔を見せた。なんとなく面影が大森多津子に似ていたのですぐ大森盛児であるとわかった。 「お客さんですか」と男は北丸に声をかけた。 「いや、ぼくはこれで失礼します」  と荒尾はいったが、席は立たず、 「失礼ですが、大森盛児さんですか」 「ええ」 「この度は野々宮先生がご不幸に遭われてご愁傷様です」 「はあ」  北丸安国が、荒尾を彼に紹介した。  それとなく観察したが、女っぽい感じがした。赤い絹のシャツとパンタロンのズボンを着け、踵《かかと》の高い靴を履いていた。 「実は、ぼくは古い野々宮先生のファンでしてね、さきほど、先生の家をお訪ねして、ご焼香させていただきましたが、あなたの母上にお会いしましたよ」  と、できるだけ、荒尾は愛想よくいった。  すると、大森盛児はなんとなく落ち着かないそぶりを見せる。  彼には答えず、画商に向かって、 「ちょっと、先に用事を足してきますから……」  と断り、出ていった。  荒尾は、意にかいさず画商に話しつづける。 「そういえば、お嬢さんがいましたな、先生には」 「ええ、アメリカに行っておりますが」 「なかなかの才媛《さいえん》と伺っておりますが」 「ええ、まあ」  なぜか歯切れが悪い。北丸安国は、野々宮斐美香のことを、なんとなく話題にしたくない様子である。  荒尾は、また話題を変えた。 「ところで、野々宮先生の邪馬台国研究は年季が入っていたのですか」 「ええ。ひと頃、邪馬台国ブームというのがあったでしょう、あの頃からですよ。わたしが先生と知り合うたのもその頃でしたっけ」 「というと、宮崎|康平《こうへい》氏の『まぼろしの邪馬台国』がベストセラーになった頃で……」 「そうでしたな。先生は、当時から邪馬台国は新宮付近にちがいないといわれておりましたな」 「宮崎氏の本が話題になったのは昭和四十二年でした」 「そうでしたか。すると、もう二十年以上になりますか……」 「邪馬台国を書けば、どんなものを書いても一万部は堅かったという時期でした」  と、荒尾はいった。 「ええ、そうです。先生が仕事を放り出して、邪馬台国に熱中されたんはその頃ですよ。わたしもよう、先生からその話を聴かされたもんです」 「あげくは、奥さんと離婚したわけでしょ」 「ええ、よくご存じで」 「まあね」  荒尾は、目で笑った。「で、お嬢さんの斐美香さんは、先生の元で、今の大森盛児さんの母親の手で育てられたわけでしょ」 「……?」  画商は、けげんそうな目をした。「そのとおりですが、それが何か」 「いやね、ぼくは美術評論の仕事をしている者なので、多少、関心があるだけですよ」  言葉を継ぎ、「別れた奥さんは今、レストランなどを経営されているそうですが……」 「ええ」  画商は目をしばたたかせて、「先日、先生の葬儀のとき久し振りでお会いしましたが、なかなかご苦労されている様子でしたよ」 「ほう、すると経営のほうが」 「ええ、まあ。人から聞いた噂ですけど」  と、言葉を濁した。 「あなたと野々宮家とのご関係は、昔からですか。さっき二十年前の邪馬台国ブームのころからといわれましたが」 「ええ、まあ」 「立ち入るような話をして、申し訳ありません」  荒尾は、笑った。「あなたの年齢からいって、二十年前というとまだ二十代ですな。ご親戚でも……」 「いえ、学生時代にわたしは、斐美香さんの家庭教師をしてたことがあるんです」 「ほう」 「ええ。奥さんが、付属へ入れたいいうんでね」 「なるほど。そういう昔の付き合いから、野々宮先生の作品を扱われるようになったのですね」 「ええ、そのとおりです」  と、画商は、落ち着かない目をして認めた。  ふたたび、大森盛児が戻ってきた。まだ荒尾がいるので、戸惑った顔をした。 「いや、すっかり長居をしまして」  といいながらも、尚も腰を上げない荒尾である。……四方山《よもやま》話ふうに話をつづけるうちに、ちょっと気になることに気付いた。大森盛児が、痺《しびれ》を切らしてか、ズックの鞄からクリップではさんだ八号の油絵を取り出し、画商に渡そうとしたので、 「それはあなたの作品ですか」  と、訊ねると、 「ええ……」  と、大森盛児は答えたが、なんとなく戸惑い顔である。 「よければ、見せていただけませんか。お近付きの印《しる》しに買わせていただいてもいいと思っているのですが」  と、誘うと、 「いや、これは……」  困ったように、画商の顔を窺《うかが》う。  すると北丸安国は、 「すんまへんな。これはもう売れた絵なもんで……」  と、そそくさと収《しま》ってしまったのだ。 「そうですか、残念ですな」  と、荒尾はいった。「独画協会展では、ぼくもあなたの作品を見ておりますよ」 「そうでしたか」  大森盛児ではなく、画商のほうが答えた。 「率直にいいまして、素人のぼくがいうのもなんですが、少し野々宮先生の影響を強く受けられていると思いますなあ」  相手をじっとみて、「弟子だから仕方がないとしても」  相手は何もいわない。気まずい空気になった。そのとき、荒尾の脳裏に、ある勘のようなものがひらめいたのだ。 「いや、いや、すっかり長居をしてしまいまして」  と、席を立ち、もう一度、ギャラリーを一巡りしながら、その考えを彼は確かめた。  思ったとおりだった。小品がどことなく弱々しい。小品と大作とでは、気迫にちがいがありすぎるのだ。これは、長年、絵を見つづけていると自然にわかるものなのだ。むろん、小品にも優れたものがある。だが、小品に限ってはでき具合にむらがあり過ぎるのだ。 (これは臭いな)  と、荒尾は思った。     3  ぎゃるりー北丸を出た荒尾は、人通りの少ない通りを歩いて、知り合いの画廊を訪ねた。オーナーは札幌の出身者である。  彼とは親しくしているので、話を聞きやすい。訊ねたのは、北丸安国の噂であった。 「ま、他ならぬ先生だからいいますがね、今度の事件で、一番得したのは、彼だろうという噂もありますよ」  画廊主は教えた。 「ほう、それはまたどうして?」 「アトリエにあった作品を根こそぎ押さえたっていう」 「しかしそれは、これまでの付き合いからいっても不自然ではないと思うがね」 「しかし、野々宮先生のコレクションも含むとなるとね」 「コレクションというと?」 「あの先生は、好いものをたくさん持っていたのですよ」 「なるほどね」  荒尾は納得した。  画家は専門家であるだけに目が利く。自分の勉強に役立てる意味もあるが、昔安く手に入れ、その後何倍、何十倍にも値上がりした名品を所蔵していることが多いのである。 「日本作家では、中川|一政《かずまさ》、林武《たけし》、鳥海青児《ちようかいせいじ》、麻生《あそう》三郎とか、ファンがいて、右から左にすぐさばけるものをね」 「ふーん。そりゃすごいね」 「海外ではルオーとかね、詳しいことは知りませんが、一財産じゃないでしょうか」 「相続人は一人娘のお嬢さんですよ」  と、荒尾はいった。 「ええ、そうらしい。しかし、せんだっての画商組合の交換会《せり》では、ちゃんと目録に乗ってましたよ」 「なるほど、けど、経営状態は、悪くはないんでしょ。今度、福岡に店を出すって話してましたがね」 「さあ、どうなんでしょう。傍目《はため》には派手そうでも、画商の実態となるとまた別ですからね」 「ところで、野々宮先生の弟子、大森盛児ですが、あの人はどうなんですか」 「あれはダメですよ。彼、北丸安国のナニだという噂もありますがね」 「ナニとはなんですか、つまりナニのこと」 「ええ」 「ふーん」  荒尾はなるほどと思った。  ——翌日、荒尾十郎は帰札した。千歳空港には、連絡をしておいたので、岩都桂介が迎えに出ていた。  その足で、千歳署へ行く。酒田刑事に会い、話をした。  酒田刑事は、首を傾げながらも、興味深かそうに荒尾の説明に耳を傾ける。 「……というわけで、北丸安国にも動機はあるわけです」  と、話し終わると、 「わかりました、調べてみます」  と、酒田はいった。 「経営状態のほうもよろしく」 「わかりました」 「暮れに福岡へ行ったという点も」  と、念を押した。 「ええ」 「それから、弟子の大森盛児ですがね、これも一応、暮れにはどこにいたか、調べられたほうがいいと思いますよ。刑事さんを差し置いてなんですが、どうも臭うのですよ」  むろん、荒尾十郎は、このとき、自分の考えのすべてを話したわけではなかった。まだ、仮説の段階だったからだ。しかし、彼なりに集めた様々な情報を総合的に再構成してみると、そこに思いがけない犯罪劇の構図が、すでに彼の脳裏には、浮かび上がっていたのである……。  一方、酒田刑事にしても、捜査が手詰まり状態にあるだけに、荒尾の持ちかえった情報には、興味を抱いたようだった。  警察署を辞して、札幌へ向かう途中、荒尾は重い口で、岩都にいった。 「一見、善良そうな人の裏側に、大それた狂気が潜んでいる——実は、そんな気が今、しているのですがね」 「北丸安国のことですか」 「いや、それだけではありません」  言葉をつづけて、「ところで、彼女の印象ですが、どうですか」 「ええ、この前、みなさんと一緒に会った翌日、支笏湖まで斐美香さんとドライブしたのですが、われわれ、かなりいい感じでしたよ」 「そうですか」 「昨日、社に彼女から電話がありましてね、今、大阪にいるんだそうです」  岩都の頬が心なしか緩《ゆる》んでいる。 「ほう」 「で、まだ未消化の有給休暇が残っているので、ちょっと行こうと思っています」 「大阪へですか」 「ええ、実はね、野々宮数馬の件で相談したいというのです」 「というと?」 「いや、詳しいことはまだわかりませんが」  荒尾十郎は沈黙を守る……。     4  翌日は日曜だった。朝早く、岩都桂介は、酒田刑事の電話を受けた。休日なしの勤務らしい。  電話の内容は、昨日の件だった。代わりに桂介は、野々宮斐美香の居所を訊かれた。  酒田刑事は、荒尾十郎にも連絡したらしい。  隠すことでもないが、訳をきくと、アメリカに戻るのはいつかを知りたいのだといった。  電話を終え、すぐ荒尾に連絡した。 「会えませんか」  と訊くと、荒尾は、自宅近くの喫茶店を指定してきた。妻が不在なので、そこで一緒に昼飯を食べようというのだ。  早速、身支度して、桂介は出掛けていった。  荒尾の住む界隈は山鼻《やまはな》というが、昔の呼び名である。明治の開拓時代に屯田兵《とんでんへい》が入植した地区である。  桂介は、近年急激に付近がタウン化してきた、北二十四条駅から地下鉄に乗った。札幌は今、北に延びているのだ。  日曜なので車両は空いていた。札幌の地下鉄はタイヤ方式だから静かである。座席に座った彼は、腕組みして考え込んだ。昨夜も彼は、邪馬台国関係の本を何冊か読んだからである。 (おそらく……、三世紀の九州は、中国人にとっては、江戸末期から明治の初めにかけての北海道のようであったにちがいない)  荒尾十郎が桂介に語ったように、時代はちがっても開拓期の事情はまったく同じであったと思う。江戸期、北海道の奥地は、間宮林蔵《まみやりんぞう》、松浦武四郎《まつうらたけしろう》などの探検家が踏査するまではほとんど知られていなかったが、彼らの手でかなり正確な地図がつくられたので、その全体像が江戸の人たちにもわかるようになった。当時、中国人が知っていた倭人の国、すなわち日本は、これとほとんど同じ感覚であったろうと想像される。  中国と朝鮮半島、九州(島)の間では想像以上の交易もあったのではないか。事情は江戸後期と同じで、北海道へは北前船《きたまえぶね》という内地からの船が、古くから、こんぶ、にしん、鮭といった海産物を買いにきていたのである。  同様なことが、当時、中国と倭の間で行なわれていたのではないか。『魏志倭人伝』には、倭からの朝貢《ちようこう》のことが記されているが、それは単なる使節の派遣ではなかったと彼なりに思うのだ。いってみれば、それは今日の外交団派遣と同じ性質のものだったはずである。車を買う代わりに魚や農産物を買えといったような交渉が、その際行なわれたのではないだろうか。  たとえば、『魏志倭人伝』の中の大国、奴国《なのくに》(二万余戸)がそれだ。彼なりに考えて、奴は魚《な》のことではないだろうか、と思う。  つまり、倭国は海産物で中国本土や韓と貿易していたはずだと思う。  彼なりにそう考えるのは、今は次兄が跡を継いでいる九州福岡の家業が、商事会社だからだろう。取引先は、韓国、中国、フィリッピン、台湾、香港など、東シナ海と南シナ海の沿岸の諸国である。 (そういえば、荒尾さんは、�自分の考えは、いわゆる穴掘り考古学じゃなくって、産業考古学かもしれないね�と話していたっけ) 『倭人伝』に出てくる末盧《まつろ》も不弥《ふみ》もそうした産業地であったはずだ。むろん邪馬台国も。この七万余戸の人口を有していた古代九州の大国は、単に農業国ではなかった。とすれば女王国の特産物はなにか? いずれにしても、女王卑弥呼が、大国、魏に使節を送ったのは、単に政治目的のためではないはずだ。古代も現代も事情はまったく同じであり、政治的結び付きは経済関係なのである。このことを、みなが無視しているのではないだろうか。しかし、経済なくして現実は成り立たない。  とすれば、古代九州における、伊都の意味、その機能もわかってくるはずだ。伊都という国は、明らかに貿易事務を扱う帯方側の出張所所在地であったはずだ。従って、千余戸と小さくてもかまわなかったわけである。  桂介は地下鉄を幌平橋で降り、中島公園を抜けて歩く……。  喫茶店はオレンジ・ペコといった。行啓通りから南におれた住宅地にそれはあった。なんのへんてつもない店だが、紅茶専門店である。  荒尾十郎は先にきていて、丸顔のマスターとなにか盛んに話していた。雲南がどうのと話しているところをみると、どうやら、お茶の起源を語っているらしい。  桂介を見て、荒尾はにっこり笑い、 「ここのマスターのこと、お宅の新聞で紹介してくれませんかね。自分の紅茶に対する趣味と関心を生かすために、脱サラしてこの小さな店を開いたそうです。たいそう研究熱心なかたでしてね、物知りです。それで、休み毎にここへ通って、ぼくなりに紅茶と陶器の歴史を取材しているのです」  と、教える。 「よろしく」  挨拶して席につき、「茶の起源はやっぱり雲南ですか」 「ええ、そうらしい。茶はともかく、この雲南人が、わが国に来た最初の渡来人である可能性は高いといえます。これも邪馬台国問題に関連するわけですがね、たとえば神武《じんむ》天皇が雲南系の移民とかかわりを持っていた可能性は否定できないね」  と、荒尾はいった。「まだ推定段階ですけど、多分、この植民集団が日本にきた最初の稲作文化民であったんじゃないか」 「でも、その神武天皇のことは、『魏志倭人伝』には触れられていないのでしょう……」  と、彼は訊いた。 「ええ、そこが不思議……。いや、というよりか、むしろ大事なのです。逆に『古事記』『日本書紀』には、邪馬台国も卑弥呼のことも触れられていない。ただ『書紀』の仲哀《ちゆうあい》天皇の条《くだり》に伊都国のことが少し書かれているくらいでして……。しかし、ま、この日本側資料と中国側資料のすれ違いこそが、邪馬台国問題解明の重要な手掛かりの一つになるはずだということです」  店のお勧めは、ミルクティーであった。こくと風味があって、たしかにうまかった。荒尾に倣《なら》ってトーストも頼んだ。  第四章 倭国北岸狗邪韓国     1 「さてと……」  荒尾十郎は、カウンターの席から隅のテーブルに移って声をひそめた。  ミルクティーをすすり、煙草に火をつけ、 「千歳の刑事さんからの電話の件ですがねえ……」  と、しきりに首を捻《ひね》っている。 「ぼくも聞きましたけど、北丸安国は、彼が荒尾さんに話したとおり、福岡に行っていたみたいですね」  と、桂介もいった。「荒尾さんが彼を疑っていたのなら、アリバイが成り立つわけです」 「とんだ見込みちがいでした。ということで、暗によけいなことはするなといった感じで、あの刑事さんに釘を刺されましたよ」  と、荒尾は苦く笑っている。  酒田刑事の連絡によると、画商の北丸は、昨年十二月二十七日の午後三時すぎ、博多駅にちかい全日空ホテルにチェックインしているという……。その直後、彼は、地元の不動産屋とロビーで会い、すぐ外出して市内の物件を幾つか見たあと、その業者の案内で市内のダウンタウン、中洲《なかす》へ行き、深夜の零時すぎにホテルに戻るまで一緒であったそうだ。そう証言したのが、同行した信用のおける地元不動産業者であったことはいうまでもない。  さらに彼は、その翌二十八日の早朝六時頃、ホテルからタクシーで福岡空港へ。ここで福岡のツーリストが催した団体ツアー�香港・シンガポールの旅�に参加合流したのだそうだ。出発便は九時一五分発香港行日航機で、彼は終始この団体と行動を共にして、一月二日帰国したというのだ。むろん、これも確実な証言である。 「完璧なアリバイがある以上、北丸安国は白という他ないね」  と、荒尾も認めた。  桂介も、 「仮に殺害時が十二月二十七日の深夜零時から、翌朝六時の間であったとしても、その間は六時間ですね。福岡・新宮間を往復するのは、どう考えても不可能ですよ」  と、いった。言葉をつづけて、「第一、新宮のガソリン・スタンドでの目撃者の証言では、少なくとも野々宮画伯は、二十九日夜までは生きていたわけですから、そのときはもう北丸安国は海外でしょ」  すると、 「ああ、そこなんだがね、桂介君。野々宮画伯の死亡時間はまだ確定しているわけじゃないよ。司法解剖の回答は、一月七日から数えて十日以上前という曖昧なものだからね」  と荒尾はいった。 「先生は、スタンド店員の証言は信用できないというのですか」 「まあネ。ぼくは替え玉の可能性があると思っているよ」 「替え玉というとだれですか」 「それはまだわかりません。ただ、似ている者であることは確かだろうね」 「似ているというと、……実弟の野々宮数馬ですか」 「……ずばりいいますねえ」  荒尾は微かに笑った。「ぼくは、それについては、肯定も否定もしませんが……」  そのころ野々宮数馬は、白浜温泉で撮影の仕事をしていたのだ。 「やっぱり、斐美香さんの指摘どおり、野々宮数馬が犯人だな。彼なら立派に動機がありますからね。酒田刑事さんも電話で、彼が今、金銭問題でかなり切迫した状態にあると話しておりましたよ」  事実、野々宮数馬は、借金のために暴力団に威《おど》されているという。 「いずれ、近いうちに、野々宮数馬は、重要参考人で警察に呼ばれるだろうな」  と、荒尾もいった。「あの刑事さんは、それで、ぼくのところに電話してきたんですよ。斐美香さんの居所を探しているのはそのためらしいね」 「と、言いますと?」 「もし、捜査本部が考えているとおり、野々宮数馬が本星なら、斐美香さんが危険です」 「なぜですか」 「もし斐美香さんがいなくなれば、野々宮画伯の遺産相続人は、実弟の彼ですからね」 「ああ、そうか」  桂介は納得した。 「ま、その件はさておくとして、もう一つ、かなり興味深い話を刑事さんは、電話でしておりましたよ。君も大森盛児のアリバイのことは、聞いたでしょ」 「はい」  大森盛児は十二月一日からヨーロッパへ出掛け、一月十日に帰国している。事件の起きたときには日本にはいなかったわけである。 「つまり、彼の場合は、容疑者リストから外れるということですね」  桂介はいった。 「否定も肯定もしません」  と、また荒尾はいった。 「元妻の篠原|洲子《しまこ》はどうなりますか」  と、桂介が訊く。 「不動産屋の松川|伴男《ともお》と彼女は今、ねんごろな関係にあるみたいですね」  と、荒尾は教えた。この松川とは、野々宮画伯の荻窪の土地を買いたがっていた地上げ屋である。 「二人のアリバイはあるんですか」 「ええ、立派に……。暮の二十五日から一月二日まで二人はハワイに行ってたそうですよ。電話で酒田刑事さんが、そう教えてくれました」 (やっぱり犯人は野々宮数馬だな)  と、桂介は思った。 「それにしても、野々宮数馬を除くと、他の事件の関係者がその時期、言い合わせたように海外旅行をしているね」  と、荒尾はいった。 「年末を海外で過ごすのは、最近の傾向で、別に珍しくはないでしょう」  と、桂介はいった。     2  若い女性客が入ってきたので、二人はその話を中断した。 「ところで、うかがいますが……」  と、桂介は話題を少し変える。「邪馬台国論争の最大のポイントは、大和説と九州説ですね。しかし、今度、吉野ケ里が発掘されたことで、一部の大和説をとる学者たちも、九州説に傾きはじめたみたいですね」  新聞にそういうコメントが載っていたからである。 「あの遺跡はもう五十年も前から見付かっていたらしいね。たまたま今度、工業団地ができることになり、二年ほど前から発掘調査が本格的になったわけです」 「一度、ぼくも、行くつもりですが、そのときはどうでしょうか、先生にもご同行願いたいですね」 「ええ、喜んで、ぜひご一緒させていただきましょう。新聞社の人と行けば、多分、一般人の立ち入り禁止地区にも入れるでしょうからね」  と、荒尾は大いに乗り気だった。「しかし、もう少し様子をみたほうがいいでしょう。これからも、何が出てくるかわかりませんからねえ」 「�親魏倭王�の金印が出てきたりして」 「はは、そうなれば大変だ。吉野ケ里が邪馬台国になってしまう。しかし、新聞に書いてあったとおり、やはりぼくも、吉野ケ里は、『魏志倭人伝』の中の小国の一つだろうと思いますよ」  と、荒尾は答えた。言葉をつづけて、「で、ともかく大和説の根拠は、大和周辺には、『倭人伝』に出てくるクニの描写に一致すると思われる遺跡がたくさん発見されていることでした。その根拠が、今度の吉野ケ里で薄れたわけですが、別の根拠が『倭人伝』の距離にあったことは、君も知っていますね」 「ええ、あれから、ぼくも相当、勉強しましたからね」  と、桂介はうなずく。  わかりやすくいうと、距離と方位に関しては、二つの説があって、図示すると次ぎのとおり。このことは、たいていの本に書かれている。(図2)   ・  ・   ・  ・ 「この二つの説で共通するのは、帯方郡から伊都《いと》国までですな」  と、荒尾。  すなわち、帯方郡(ソウル付近)→狗邪韓国《くやかんこく》(朝鮮半島南岸の金海といわれている)→対馬《つしま》(対海)→一大《いき》(壱岐)→末盧《まつろ》→伊都までは共通する。だが、その先が図のとおり、古くからある直線説と榎一雄氏らの提唱する放射説とに分かれるのだ。 「ここでは、放射説の検討は、君と一緒に吉野ケ里へ行ったときの楽しみに残しておきましょうや」  と、荒尾はいった。  言葉をつづけて、「実はね、ぼくは、この伊都起点の放射説にも異論を唱える者なのです。かつ、それを立証することによって、事件の完全解決に必要な糸口がつかめるんじゃないかと、思っているんですよ」 「その話を先に訊きたいですね」 「いや、まだ教えるわけにはいきません。シャーロック・ホームズ先生だって、そう簡単には、ワトソン君に種明かしをしないでしょ」  荒尾はマスターにいって紅茶のお代わりを頼む。 「何にしますか、先生」  と、マスターが訊く。 「そうね、ウバをお願いします」 「ぼくも、同じものを」  と、桂介もいった。 「さて、直線説の検討ですが、当時の一里が今の四キロではないことはご存じですね」 「魏里ですね」  桂介は持参したノートを開く。「当時の里については各説あるようですが、四三四メートルでいいと思いますが」 「じゃ、その一里=四三四メートルでこれからの話を進めることにしましょう」(註2)  と、荒尾はいった。「で、末盧というのは、今の九州|松浦《まつうら》のことで、学者の意見は一致している。ぼくも、その伊万里湾の付近だろうと思いますが、さて、『魏志倭人伝』によれば、末盧から伊都までが、五百余里とある。四三四メートルで換算すればいくらになりますか」  荒尾は、マスターから電卓を借りて、桂介に渡した。  答えは二一七キロである。荒尾は地図帳を持参しており、ページをめくっていた。縮尺を紙片に写しとって定規を作り、あててみると、二一七キロは、伊万里から直線で徳山のあたりである。むろん、陸行とあるのを無視した乱暴な計りかたである。  次ぎに伊都→奴《な》→不弥《ふみ》の合計を方角を無視して足すと二百余里、八六・八キロである。図に落とすと呉《くれ》のあたりになる。  さらにここより水行十日、陸行一月行ったところが、邪馬台国になる。 「水行一日はどのくらい進める距離なんですか」 「学者の説では、二〇キロメートルと見ているようですね。陸行もほぼそれと同じです」  と、荒尾は教えた。 「すると、仮に呉が不弥国とすると、水行十日で二〇〇キロですね」  地図では、直線で落とすと姫路である。 「さらに陸を六〇〇キロも進んだところが、邪馬台国ですか」 「直線で計ると、邪馬台国は、大和を通り越して、会津若松になりますな」 「東北地方に邪馬台国があったなんて、そんなことはあり得ませんね」  と、桂介はいった。 「ですからね、いろいろと距離を調整したりして、だいたいのところで、大和盆地に合わせているのが、大和説なわけですよ。むろん、新宮付近でも合いませんな」 「いずれにしても、方角もまた、大和説では合わないわけですね」  すると、 「いや、それが、必ずしもそうではないのです」  と、荒尾は言い出した。 「どういうことですか」 「�松浦半島の謎�というのがあるからですよ。ぼくはこの話を『発見! 邪馬台国への航跡』(註3)という本で読んだのですがね」  と、いって、また地図のページを開いた。 「ここです。ほらね、松浦半島は伊万里湾をはさんで二つあるが、北にあるほうが東松浦半島になっているでしょ」 「ええ」 「そして、ほら、西にあるのが北松浦半島になっている。他にも伊万里の南に西松浦郡という郡名がありますがね」 「ああ、変ですね、たしかに」 「でしょう。松浦半島の怪というべきか。東西南北がちょうど、九〇度反時計回りにずれて表記されているのが、松浦地方なんですよ」 「どうしてですか」 「さあーね。とにかく、この地名は五、六世紀までさかのぼれるほど、古いみたいですよ」 「ほんとですねえ」  桂介は、顔を近付けて、しげしげと地図をみた。 「すると、どうなるか。『魏志倭人伝』の時代に、末盧(松浦)に上陸した帯方郡の使者が、土地の者に方角を聴き、まちがった方向を教えられた可能性はあるわけでしょ」 「そうですね」 「すると、たしかに東南は、現実の方位の北東になる」 「なるほど」 「で、このことが、伊万里から見て北東の方位になる糸島《いとしま》半島をして、伊都国に比定する所以《ゆえん》にもなるわけですよ」  事実、豊富な遺跡の存在によって、糸島半島を伊都とし、その先の福岡をして奴国に比定する説は、ほぼ学界に定着しているのだ。研究者のほとんどが、その説に従っているのである。 「ぼくは福岡出身者として、その説に加担したいな」  と桂介はいった。  有名な�漢委奴国王�の金印が発見されたのも、福岡の志賀島《しかのしま》である。 「ところが、岩都君、ぼくは、あえてこの説に異を唱える者なのです」 「えッ? といいますと……」 「理由は今はまだいいません。しかし、野々宮画伯を殺害した犯人を見付ける手掛かりは、多分、ぼくの説と関係ありますよ。野々宮画伯もきっと、ぼくのように考えたにちがいありませんから。というよりは、ぼくが、野々宮画伯の授けてくれたヒントに従って、『魏志倭人伝』を読んだところ、そういう結論になったのだと申しておきましょう」 「重大な発言だなあ」  と、桂介はいった。 「他でもないのです。そら、あの言葉ですよ。野々宮画伯は、『倭人伝』の正しい解読ヒントは、�始度一海千餘里至對海(馬)國�にあるといいました。ぼくは、実をいうと、そのこともあって、ニューヨークへ飛んだのです」 「ニューヨークにも関係があるのですか」  唖然とした。桂介は目を見張った。     3  話はさらに弾み、荒尾十郎は、また計算を始めた。 「『魏志倭人伝』によると、帯方郡から邪馬台国に至るには万二千余里と書いている。さっきの四三四メートルで換算すると五二〇八キロですよ。地球の四分の一周にもなる距離です。地図でいえば、ほとんどハワイ付近ですよ」 「南ならニューギニアですか」  と、桂介もいった。 「南西ならシンガポールになるね」 「つまり、邪馬台国は、ハワイやニューギニア、シンガポールにあったとも考えられるということですか」  と、桂介はいった。 「いや、そういう話じゃありません。ぼくはね、北丸安国が年末休みにシンガポールへ行き、篠原洲子と松川伴男が年末にハワイへ行ったということが、妙にひっかかるのですよ」 「ああ、なるほど。彼らは邪馬台国に行ったことになりますものね」 「むろん、これは偶然の一致にすぎないかもしれませんが、ひょっとすると意味があるのかもしれませんからね」  と、荒尾はいった。 「でも、大森盛児の場合はヨーロッパでしょ」 「しかし、彼は、大韓航空を使っているよ。ソウルつまり帯方郡経由なんですな、これが……」 「理屈ですね」  桂介は首を捻った。 「ぼくも、今度の、ニューヨーク行きでは、やはり大韓航空を使いました。料金が格安ですからね」 「ぼくは乗ったことはありませんが、ニューヨークからはいったんソウルに着いて、日本にくるそうですね」 「ええ、斐美香さんも、今度の帰省には大韓航空を使ったって話していましたね、そういえば……」 「ええ、そうでした」 「とにかく、邪馬台国いずこってわけですが、『倭人伝』にはもう一つ、倭の地は�周旋五千餘里�とも書かれている」 「倭の回りが五千里あるという意味ですね」 「そう。四三四メートルで換算すると、二一七〇キロになる。仮にこれを完全な円周とするなら、その半径は……」  と、荒尾は電卓で計算し、「つまり、半径三四五・五キロの円内にあるのが倭の地ということになるわけです」  ふたたび地図の上に、種子島を中心にして、この円を落としてみると、図3のようになる。すなわち、北は福岡、南は奄美《あまみ》大島……。九州全土と薩南諸島、四国の一部を含む地域が、倭の地になるのだ。 「仮に倭の中心を四国にすると、九州と中国地方、近畿、そして大和もこの円の中に入りますな」  と、荒尾はつづける。「しかし、倭は�当《まさ》に中国の会稽東冶《かいけいとうや》の東にある�と『倭人伝』には書かれているのだから、やはり、種子島を中心にした円内の領域をいっていることがわかるわけです」(図3)   ・  ・   ・  ・  他にも、�冬夏ともに生菜を食す�といった記事も見え、倭が温暖な地であることを示しているところから、そのイメージは九州、薩南諸島を彷彿《ほうふつ》させる。さらにまた、倭は�海中洲島の上にあり、或は絶え、或は連なり�とあることからもわかるとおり、やはり九州、薩南諸島の形状をよくいい表わしているのだ。 「……というわけで、ぼくはやはり倭を支配した邪馬台国は、九州にあったはずだと思うわけです」 「野々宮画伯が、新宮へは行かなかったはずだという、それが根拠になるわけですね」  桂介はいった。 「まあね」  荒尾は曖昧な笑みを浮かべた。「でもね、桂介君、犯人はなんらかの理由で、そうして遺体を車ごと移動させたわけだが、それはなぜか。なぜそうしたか。その理由がわかれば、犯人逮捕の糸口がつかめる……」 「先生はどうお考えなんですか」 「いや、まだわかりません。そして、殺害場所が新宮でないとすると、いったい、どこで画伯は殺害されたのだろうか」 「九州ですか」 「さあね……」 「もし、九州だとすると、今度は、二十七日に福岡にいた北丸安国が、ふたたび怪しくなりますね」 「ええ」 「そのとき、野々宮画伯は福岡にいたんでしょうか」 「…………」  荒尾は黙っている。 「そういえば、年末、家政婦の大森多津子は、郷里の延岡に帰っていますよ」 「ええ」 「先生、ぼくはいささか頭が混乱してきたな」  と、桂介はいった。  しばらくして、 「ひょっとすると甘木《あまぎ》かもしれないね、画伯の想定していた邪馬台国は……」  と、荒尾は、重い口を開く。 「ああ、邪馬台国比定地として、甘木説は有力な候補地ですものね」 「ええ、安本美典氏がこの説を唱えています。しかし、ぼくはまだ甘木へいったことはないのでね。『邪馬台国の秘密』の中で神津恭介もそうだったが、君は?」 「ぼくもです」  桂介は首を横に振る。「しかし、宇佐の可能性もありますよ」 「宇佐は、神津恭介の説だね」  と、荒尾はいった。  話はそこでしばらくとぎれた。喫茶店の窓の外は、小雪であった。北国の春はまだ山の彼方だ……。     4  ふたたび、荒尾が口を開いた。 「ま、その問題は、先のことにして、ぼくはね、桂介君、邪馬台国の問題は、どうしても神武《じんむ》天皇の問題を抜きにしては考えられないと思っています。その話を聴いてくれますか」 「伺います」  彼は改まった。 「結論からいうと、九州|大隈《おおすみ》半島の付け根に、肝属《きもつき》川というのがある。そこにですね、神武の臍塚《へそづか》というのがあるのをご存じですか」 「そんなのがあるのですか」  彼は、びっくりして目を見張った。 「民有地の竹やぶのなかにあるんですよ。ほかにも、産湯《うぶゆ》をつかった場所とかいろいろありますが、この神武肝属生誕伝説は、もっともだとぼくなりに思います。大隅に行くとよくわかりますが、景観はまるで東南アジアですよ。雲南みたいなんです。彼らは紀元前、弥生時代にはすでに雲南からこの地に来ており、やがて人口の増加とともに、日向《ひゆうが》など九州東側沿岸を伝いながら最終地の大和へ入植した。これが有名な神武東征神話の祖形なのだろうと思いますが、さっきもいったように,このとき一族を率いたのが、後に神《かむ》日本《やまと》磐余彦《いわれびこ》と呼ばれた神武であった。その名のとおりきっと岩のような意志をもった指導者であったと想像されます。しかしね、この大隅|姶羅《あいら》肝属の稲作農耕民は、平和な生活を送っていて、戦争のやりかたなどは知らなかったのではないか、と想像されます。そこで、『桓檀《かんたん》古記』という韓国の文献が生きてくるのですが、韓国から渡ってきた人たちがそれを教えたと考えるのは、あながち無理な想像ではないでしょう」 「『桓檀古記』というその韓国側史料に大隅のことが書いてあるのですか」  と、桂介は訊く。初めて聞いた話だからだ。 「ええ、ちゃんとね。中国側史料にもない驚くべき記述がね」  と、荒尾は答えた。「こうあるのです。�末盧国の南に大隅国あり、大隅国に姶羅郡あり。もと南|沃沮《よくそ》人のあつまる所�とね。この沃沮というのは、後漢の頃、高句麗と境を接して、朝鮮半島北部の日本海側から沿海州にかけてあった国のことですよ。で、どうも神武という人物は、この南沃沮人の子孫らしい」 「つまり、神武は、雲南系の女を母とし、沃沮人を父として生まれた英雄ということですか」(註4) 「断定はしません。しかし仮定は成立するでしょう」  と、屈託なく笑い、「では、どうして、『魏志倭人伝』に、彼らの大隅国のことが書かれていなかったのかというとね、これも仮定の話ですが、稲作農耕民であった神武の母系集団は、中国人にとっては、交易の対象ではなかったからですよ」 「あッ、なるほど」  桂介自身も、ここへくる途中、道々考えてきたことであったので、即座に納得できた。  米の大生産地である中国の人が、遠い国で採れた米を買う必要がないのは自明の理である。日本が、カルフォルニヤの米を必要としないのと全く同じである。 「ということは、つまり、その論理からいえば、逆に、『倭人伝』に記載されている倭の国々は、すべて交易対象国であったことになりますね」 「ですから、『魏志倭人伝』は、地理書であると同時に、産業案内書としての機能を、ちゃんと持っていたのだとぼくは考えますね」  たしかにそういう視点で『倭人伝』を読み直すと、今まで見えなかった部分が、はっきり見えてくるのだ。 「岡田英弘氏の本にも書いてありますよ」(註5)  と、荒尾はいった。「『東夷伝』によると、当時、朝鮮半島では豊富に鉄が産出したらしいね。�韓、|※《わい》、倭はみな従ってこれ(鉄)を取る�とあるんですよ。岡田氏も述べていますが、そのころ辰韓《しんかん》、弁韓の城郭都市の経済の担い手は、華僑《かきよう》であったそうです。彼らは商業と手工業の専門家で、朝鮮半島と日本にまたがる交易網を握って繁栄していたというのです。この国際貿易の決済は、鉄で行なわれていた」 「意外に進んでいたのですね」  と、桂介は感心した。 「岡田氏の説は、明快この上もないので、説得力があるね。ぼくなりに思うのですが、アラビア商人が東のインドと西のヨーロッパを橋渡しして儲けたように、朝鮮南端にあった、辰韓、弁韓人は、朝鮮半島陸橋の地理的条件を生かして、日本と中国本土との貿易で繁栄していたんでしょうね」 「香港はじめ東南アジアの華僑のことは知っておりますが、そんな時代にも華僑がいたんですか」  と、桂介は訊いた。 「いましたよ。辰韓、弁韓の華僑は、秦《しん》の暴政から逃れてきた人たちだったんです。いや、朝鮮への亡命はもっと古くからあったみたいですね。たとえば、周に滅ぼされた殷《いん》の遺臣が紀元前千年以上前に朝鮮へ亡命している。つまり、ここでいいたいのは、邪馬台国の時代の日本は、中国側にとっては、よく良く知られた夷国《いこく》であり、物産産出国としても大いに魅力があったのではないか、という点です」 「『魏志倭人伝』も、そういう観点で読めということですね」  と、桂介も応じた。 「が、その話は次ぎの機会として、桂介君……」  考える目をして、荒尾十郎はつづける。「……ひょっとすると、『魏志倭人伝』の中にも、われわれが単に気がつかないだけの神武系集団の国が存在していたのではないかと、ぼくなりに考えていますよ。『桓壇古記』を読むとそんな気がしないでもないのです」 「どういうことです?」  桂介は、話が佳境に入ったのを感じた。 「仮に神武伝説が事実だったとして、神武一派がいつごろ肝属《きもつき》川流域から移動を始めたかは、まだわかりません。崇神《すじん》、応神《おうじん》ははっきり韓国系だということがわかるのですが、神武は依然、霧に包まれた伝説の天皇ですからね。『記紀』などの紀元前六百何十年というのは、後から辻褄合わせしたものですから、おそらく、ひょっとすると、邪馬台国の時代だったのかもしれませんよ。神武集団は、その一部をその故郷に残して、主力が移動したのでしょうが、いってみれば倭国のアレキサンダー大王ですよ。アレキサンダーの場合は、前四世紀後半ということがちゃんとわかっているが、神武はわからない。……で、ぼくはね、これは作家的想像ですが、神武はひょっとするとアレキサンダー大王の東征を聞きづたえで知っていたのかもしれないと思っているくらいなのです」 「そんなことが、成り立つのですか」  桂介は、いささかどぎもを抜かれた面持ちである。 「ええ。アレキサンダーの東征というのは、かなり早くから伝説化した物語として、シルクロード経由で中国にも、インドからは海路でマレーシアにも伝わっておりますからね。神武は、父親の沃沮《よくそ》人からその話を聞いてたのかもしれませんよ。さもなければ、あのような突飛な行動、東征に出るはずはないと、ぼくは思うね。仮に、沃沮人の肝属への移動が、東沃沮が高句麗に併合されて滅びた、中国の三国時代とすれば、神武の誕生と成人は、三世紀前半ということになり、倭の大乱期にも一致しますよ。雲南人を母とし、沃沮人を父にもった青年、神武こそが、この大乱時代の英傑として、肝属・日向から宇佐へ上陸、北九州を征服したのではないか。ただし、これも作家の自由な空想でいえることですがね……。『古事記』によれば、ある時期、神武は日向から九州東岸を北上して、国東《くにさき》の宇沙(佐)や筑紫(北九州)へ移動し、岡田宮(芦屋町)にも滞在するでしょう。さらに大和へ向かうのですが、これが史実だとすれば、必ず、『倭人伝』の中にそのことが出ているはずなのです。それが自然ですから……」 「つまり、なんという国名ですか」 「いや、まだそれはいえません」  言葉をつづけ、「……さて、一応、以上のような前提というか、仮説の背景を念頭においてもらって、先に進みますが、岩都君も新聞社の仕事とはいえ、そうとう『倭人伝』を勉強したようですな」 「ええ、まだ読書十遍で百回には及びませんが、一応は……」  と、答えながら、彼もコピーして持参した『魏志倭人伝』の訓読文を開く……。     5  覗き込んだ荒尾は、 「訓読文にもいろいろ説があるのですが、いちおうそれでもいいでしょう。しかし、もっと易しい口語訳は、これがいいと思います」  といって、コピーをくれた。 「これは、中央公論社の�日本の古代�シリーズの一冊でして、『倭人の登場』の一部です。中庸《ちゆうよう》をとった編集なので、初めての向きには一番適していると思いますな」  なんとなく講義を聞くような面持ちで、桂介はページをめくる。 「それにも書いてあるが、まず、『魏志倭人伝』の成立した背景を少し……」  コップの水を一口、煙草に火をつけて、荒尾はいった。極端に要約すると次のとおりだ。  西暦二二〇年、後漢のあとを請《う》けて、中国は三国時代を迎える。魏《ぎ》、呉《ご》、蜀《しよく》の三国である。二八〇年にこの分立は晋《しん》に統一される。このころ陳寿《ちんじゆ》という人の手で、編纂《へんさん》されたのが『三国志』である。このとき陳寿が参考にしたのが、魏書(王沈《おうしん》)、呉書(韋昭《いしよう》)、魏略(魚豢《ぎよかん》)といわれている。『魏志倭人伝』は、その魏志(三〇巻)の�烏丸鮮卑東夷伝�の一部なのだ。なお史実として、二三九年卑弥呼が魏に遣使したことは、はっきりしている。 「それでは背景はこのくらいにして、とにかく、『倭人伝』が卑弥呼の時代から四十年ぐらいしてから書かれたということを覚えておいてください。平成元年の感覚なら、日本が太平洋戦争に負けた頃の歴史ということになりますか。つまり、まだ風化はしたといっても記憶になまなましいわけで、ぼくは、『倭人伝』というのは正確この上ないものだと思っているのです」  と、荒尾十郎……。「じゃ、早速、岩都君に訊きますが、第一節は別に問題ない……、そう思いましたか」 「ええ、その意味は、こうでしょう」  と、桂介は応ずる。「倭人の国は、今の韓国ソウルの付近にあった帯方郡の、東南の大きな海の中にある。漢代には百以上の国や集落(邑《むら》)があり、朝見《ちようけん》(諸侯が天子にまみえること)する国もあった。しかし、現在は、中国の使者が行き来して、言葉の通ずるのは三十ヵ国しかない」  言葉をとぎらせ、「……つまり、ここは、今は三十ヵ国としか通商していないが、しかし倭には他にも国のあることを暗示していますね。今、荒尾さんが述べた神武一族の国のあることが言外に語られているのではないでしょうか」 「うまいねッ」  と、荒尾は手を拍《う》って、屈託なく誉《ほ》めた。「それが、�眼光紙背に徹す�という読みかたです」  言葉をつづけて、「ぼくは小説書きなもんで、文章にはうるさいほうなんですよ。で、昨日もいいましたが、作家的眼でこの冒頭の一文を読みますとね、これを書いた人物は、極めて高度なレトリックの使い手だと思いますね。つまり、いわずして言う、書かずに書くという高度の文章技術をもっている。『倭人伝』の文章は、その性格上、新聞記事のように簡潔でなければならなかった……。ところで、われわれ作家が一番苦労するのが新聞の依頼原稿なんですが、枚数が僅かで、原稿用紙二、三枚以内という制限がある。従って、くどくど書けない。だから、常に含みのある書きかた、単に文章を省略するのではなく、あることを書いていながら、さらに別の意味をもその文節に託すという、文字の節約法をとるのです。あなたは記者だから当然わかるでしょ」 「ええ、身につまされてわかりますよ」  突然、話が新聞の文章論になったので、桂介はちょっと耳が痛い。 「陳寿の書きかたがまさにそれだと思うのです。当時の人々は、この省略された陳寿の文で、十分書かれていない意味も読み取り得る予備知識があったのでしょうね。だが、時代が下ると、そのレトリックの部分がわからなくなって行った。それが、『魏志倭人伝』を暗号のように難解にしている理由だろうと、ぼくは思うわけです……。先をどうぞ」  いわれて、桂介はつづける。 「で、帯方郡を船出して倭人の地へ行くには、韓国を海岸沿いに船で行き、まず南下、次に東へ進めば、その北岸の狗邪韓国《くやかんこく》に着く。……そういう意味ですね」  この部分の原文は次のとおりだ。  ——從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里。 「なにか気付きませんでした?」  荒尾がいった。「たとえば、この短い文には、二つのイタルがある。一つは�至�、もう一つは�到�です」 「ああ、ほんとうだ」  不注意というか、何度も読んだのに気付かなかった用字の使いわけである。 「それから、最初の�從郡至倭�の�從�ですが、君はなんの疑いももたずに、従来どおりに読んだね」 「ええ、ヨリではいけないのですか」 「とはいっていませんが、疑うのは発見の第一歩ですよ」 「�人間は懐疑する葦である�パスカル——ですか」 「ははッ」  荒尾は陽気に笑った。 「じゃ、どう読むのです?」 「距離の出発をあらわす�なになにヨリ�は、普通は�自�でしょ」 「ええ、そうですね」 「漢和辞典をちょっと引けばわかりますが、同じ�ヨリ�と読めても、�自�は鼻のかたちを表した字で自分のこと。しかし、�從�は、人が二人並んだかたちでしてね、そこから�したがう・つれていく�の他に、この字には�縱�の意味も内包されているんです」 「なるほど、�縱�には、�從�が入ってますね」 「ですからね、陳寿はまず、郡を出発して縦に南下すればというニュアンスと、それから郡の出す使節に付き従って倭に至るには、という意味を、この�從《より》�一文字に託しているんじゃないだろうか——とぼくは推理したわけです。これは、『倭人伝』を読み解くのに要《かなめ》の役目をしているはずだ、とぼくなりに考えますがね」 「しかし、それほど�從�にこだわる必要があるのですか」  桂介は首を捻った。 「おいおいわかりますが、大いにあるのですよ」  と、荒尾はいった。「とにかく、その話は、今はそのくらいにして、もう一つ、どこかこの文で、変だと思いませんでした?」 「いいえ」 「�其の北岸の��其�は、何をしめす代名詞だと思いますか」  荒尾は重ねて訊いた。 「文脈からいえば当然、倭を指していますね……」 「つまり、狗邪韓国は、当時、倭と呼ばれていた九州の北岸にあることになりますね」 「ええ、当然でしょう。北岸は他にはありません。朝鮮半島側なら南岸ですからね」 「でしょう……」  荒尾は、深くうなずいた。 「実は、ここが、邪馬台国問題の最初に出てくる重要な謎でしてね、皆さんが苦労していろいろな説明をつけている個所なんですよ」 「九州の北岸、つまり玄界灘《げんかいなだ》に面した地域ではどうしていけないんでしょうね」 「専門家たちは、原文どおり素直に読まないのです。狗邪韓国は、今の韓国の南岸にある金海(加羅《から》)のことだというのです」 「なぜですかね?」 「わかりません。そこに有力な遺跡があるからでしょうな、きっと」 「それにしても、変ですねえ」  桂介は、気をひきしめるように、大きく首を傾げた。 「おそらく狗邪韓国の韓国という言葉に惑わされているのでしょうね。第二は、韓が日本側の九州にあるはずがないという予断があったせいかな。戦前なら特にそうですからね」  と、荒尾はいった。「しかし、往時を考えるなら、南朝鮮半島と対馬海峡と九州は一つの領域ですからね。第一、国といったって今のような国家の概念からはほど遠い部族国家というか、村国家というか、親類の集まりみたいなものでしてね、自由に往来していたのだと思うのです。ですから、とにかく、忠実に『倭人伝』を読むなら、どうしても狗邪韓国は九州にあったことになる。あっても不思議ではない。先にいったように、九州北岸福岡付近に、伊都や奴を比定するのが定説ですがね……」  荒尾は、考える目をしてつづける。 「事実、福岡県には多くの遺跡があるわけですが、これは狗邪韓国のものだった、とすれば、それでも辻褄が合う。むろんその前後には諸国の興亡がこの地にあったのでしょうが、少なくとも『魏志倭人伝』の示す時代には、ここが狗邪韓国であった時期もあった、とぼくは信じますね」  荒尾は、さらに弁舌をふるった。言葉に張りがあり、確信しているようだった。 「この考えを補強する理由は他にもあります。先にも話したとおり、『魏志倭人伝』というのは、そもそも『三国志』の一部にすぎないわけです。従って、倭国のことを書いている前には、朝鮮半島のことも記述している。当時、半島南部は、弁韓、辰韓《しんかん》、馬韓の三国に分かれていた。これを三韓といった。で、その『東夷伝』の韓の条には�韓は帯方の南、東面は海をもって限りとなし、南は倭に接す�とある。つまりね、東側は日本海側の海岸で終わり、南は倭国と接しているということでしょ」 「そうですね」  桂介はうなずく。 「とすれば、半島の南岸にあるはずはない。その先は海ですから。しかしね、もう一つ、同じ『東夷伝』の弁辰の条には、�涜盧《とくろ》国倭に界を接す�とあるのです。この涜盧は今の巨済《きよさい》島のことだろうといわれているわけですが、この場合はわざわざ陳寿は、�界を�と断っている。単に�接している�とは書いていない。こういう微妙な書きかたのちがいが『倭人伝』には随所にあります。孫栄健というかたの『邪馬台国の全解決』(註6)を読むと、これが中国文献独特の筆法という修辞法だと書いてあります。陳寿はこの筆法の名手であったらしい。陳寿は、ちょっと凡庸の読み手には気がつかない微妙な字句の使い分けによって、深い意味を表しているということです。つまり、ここで、陳寿がいおうとしている真意は、�界�つまり倭国の勢力圏内(たとえば対馬)に接しているということで、あくまで国境を接しているという意味じゃないと、ぼくは理解する……」 「なるほどなあ」  ふたたび、桂介はうなずく。  つまり、韓の条の�南は倭に接す�と弁辰の条の�倭に界を接す�は、その意味するところのニュアンスが、絶妙にちがうということなのだ。 「つまり、仕掛がしてあるということなんですね、陳寿の文には?」  と、桂介は勘よくいった。 「そのとおり。『魏志倭人伝』には、陳寿の用意周到な仕掛がたくさんしてあるのです。いってみれば、前にもいいましたが、『倭人伝』は暗号文書といっていいくらいで……」  と、言葉をつづけ、「もう一つ、狗邪韓国九州北岸説の根拠をあげますと、�東夷伝�の韓の条にはたくさんの国があげられているのですがね、肝心の狗邪韓国の名はみあたらない、似たのはありますが……。弁辰狗邪国です。しかし、狗邪韓国とは明記されていない。大いに変でしょう」 「変ですね、たしかに。狗邪韓国がもし朝鮮半島の南岸にあるのなら、当然、その韓の条にその名を明記しているはずですものね」  と、桂介は答える。 「つまりね、陳寿は、弁辰系の狗邪国が、もう一つ倭(九州)側にもあることをいい表すために、わざわざ狗邪韓国と断わったのではないか。なぜなら、もし半島側にあるのなら、わざわざ狗邪韓国と断るはずはないもの。�到其北岸狗邪國�でいいはずでしょ」 「なるほどなあ」  桂介はうなずく。だが、これは、すでに定着した学説に対する大胆な挑戦なのである。 「昔のパキスタンのような、飛び地国家であったかもしれないね、狗邪韓国は。西パキスタン、東パキスタンといい分けていたのと同じかもしれないし、弁辰狗邪は、半島側に進出していた倭側の狗邪韓国の植民地だったのかもしれない。とにかく、さっきもいいましたが、当時の対馬海峡は一種の湖水みたいなもんでしょ。同族の連中が勝手に国を出て、対岸の九州に往来していたと思う。当時は国といっても、国境線だってないも同然、曖昧なものだったんですよ。たとえばね、アラビア半島とかアフガニスタンに行くと、遊牧民が勝手に、二つの国を行ったり来たりですよ、ビザなんてものは持たずにね。それとおんなじで、その時代の海洋民は、海原をわが庭のようにしていたと思うな。特に、対馬海峡は、飛び石のように対馬と壱岐《いき》があるわけで、渡るには、それこそ因幡《いなば》の白兎みたいにね、好都合だったんじゃないか」  と、荒尾の語り口は、はなはだ具体的、飛躍はあるものの素人には愉快であった……。 「その、先生の、弁辰狗邪国が、狗邪韓国の植民地という説はおもしろいですね」  と、桂介はいった。「発想の逆転ですねえ」 「いや、先入観を捨てているからですよ。先にいった岡田氏の『倭国』という本ですが、これには、倭人の居留地が、狗邪国の外れの洛東江口海岸にあったはずだと述べられておりますよ。ただし、岡田氏は、それが�其北岸�の意味に他ならないといわれているのですが、ぼくの見かたは以上のとおりです」  冷めたウバ紅茶で口元を濡らした荒尾は、 「それで、余談を戻しますがね」  と、つづける。「実は韓国側資料の『桓檀古記』にはちゃんと証拠がある。この資料の信憑性の問題は別にしても、この失われそうになった古資料を日本に持ち帰って覆刻された鹿島|※《のぼる》というかたがおられるのです。これには、狗邪韓国は、弁辰狗邪の植民地で、倭の強大な国とある」 「ああ、やっぱり……」 「さらにこんな一文もこの書の�高句麗本紀�にあるんです」  と、いって荒尾は読みあげた。 「——�其れ狗邪韓国に往かんと欲する者は、蓋し津島、加羅山、志加島に因り、始めて末盧戸資の境に到るを得る。其の東界は即ちそれ狗邪韓国の地なり�(註7)。これではっきり、地図さえみれば、狗邪韓国が福岡県にあったことがわかるでしょう」  荒尾はつづける。 「津島は対馬。加羅山は壱岐水道の加唐《かから》島。志加島は博多湾出入口にある志賀島だってすぐわかる。つまり、ちゃんと、福岡の狗邪韓国に至る航路が記されているんですよ」 「ほんとうだ」  桂介は軽く叫ぶ。 『桓檀古記』に因《よ》らずとも、『倭人伝』どおりに、韓の西海岸に沿って南下して、済州海峡で針路を変え、真っ直ぐ東へ進めば、ずばり博多湾に着くのだ。 「……それから桂介君、韓国を�歴《へ》テ�とあって、�経テ�ではない。陳寿は、なぜわざわざ�歴�を用字として使ったのか。これを疑うべきなのです。�歴�には、�越える��飛び越す�の意味も含まれている。つまりですね、�歴韓�とは、単に�韓国を経て行く�ことではなくて、韓国を�飛び越して行けば�、という意味になるのです」 「直行便ということですね、東京から札幌へ飛行機でいくように」  と、桂介は納得した。 「そうですともッ! ……�帯方郡から韓国を歴て(飛び越して)、直接、倭の北岸(狗邪韓国)に行くことができる�——そう、陳寿は書いているにすぎないわけです」 「七千余里とあるのは、その直行便航路の距離のことですね」  と、訊ねると、意外や荒尾は、 「いや、それはちょっとちがいます」  と、解読の楽しみを先送りにして、「いずれにしても、この狗邪韓国を九州北岸に比定すると、『倭人伝』の内包する矛盾点は、ほとんど解消してしまうんです。ぼくはね、狗邪韓国というのは、狗邪・韓国ではなくて、狗邪韓・国じゃないかと思う。つまり、狗・邪・韓の三派からなる三者連合体じゃないかって考えるのです。で、狗は狗奴国系、邪は邪馬国、そして韓は弁辰のことじゃないか。往時、この三者連合が、北九州にいて、強力な国際貿易の利権を握って繁栄していたのではないか。どうもそんな気がするんですな。当時、対馬海峡を荒しまわる倭寇《わこう》の存在は知られています。この海賊たちの根拠地が狗邪韓じゃなかっただろうか。そして、これが宗像《むなかた》水軍の前身であった。にもかかわらず『倭人伝』にこの国のことが何も書かれていないのは、中国側にとっては、この連中が、はなはだ厄介な存在だったからではないでしょうか。中国側の交易船を襲撃して積み荷を奪う連中のことを、書くはずはありませんからね」 「つまりなんですね」  と、桂介も応じた。「帯方郡から倭へ行く二つのルートが、『倭人伝』には書かれているにちがいない、という先生の推理も、それだと納得されますね。中国側としては、海賊に襲われやすい直通航路ではなくて、対馬、壱岐を伝い、さらに末盧へ行くコースを、当時は取っていたんじゃないでしょうか」  すると、荒尾は、 「いや、さらに、対馬海峡が倭寇の暗躍で危うくなり、もう一つのルートを取らざるを得なくなっていた。その当時の海上事情が『魏志倭人伝』には書かれているのではないかと思いますよ」 「といいますと?」 「有明海ルートですよ。伊都の位置は、この有明海ルートで考えないとわからない。玄界灘ルートで考えるから矛盾してくるんじゃないだろうか」 「吉野ケ里遺跡の発見が、その説を裏付けますね」  と、桂介はいささか興奮した。  当時の有明海は、吉野ケ里付近まで広がっていたことが確認されているからである……。 第二部 邪馬台国いずこ  第五章 画商のアリバイ     1  三月三日——、出社した岩都桂介《いわとけいすけ》を呼んで、テレックスに入った通信社のニュースを教えてくれたのは、武丘部長だった。野々宮数馬が、四国の高知で殺害されたというのだ。 「見たまえ、これは一昨日のテレックスだが、何か企画用の材料がないかと思って、調べていたら、これを見付けたのさ」  と、部長は指さした。  四国は北海道とは離れた地域であり、さして珍しいニュースではないので、こちらでは記事にはならなかったわけである。  桂介は驚いて、千歳署に電話した。酒田刑事が出た。咳き込むようにニュースを告げると、 「ええ、実はそのとおりです……」  酒田は、積極的には話してくれなかったが、最有力の容疑者が殺されたことにショックを受けているようだった。  むろん、前からこの野々宮画伯の実弟のことは、大阪の署に依頼して内偵中であったという。 「近く風営法やその他の容疑で、別件逮捕する予定だったんですがねえ」  と、いつもの張りが、その声にはない。 「ま、よくある話ですがね、未成年者をポルノに出演させていたのですな」  と、酒田刑事は教えてくれた。 「それにしても、殺されたのは高知ですよ。なぜでしょうね」 「いや、わかりません。これからわたしも高知へ出張ですわ」  と、答えた。  桂介は、荒尾にも連絡したが、 「……やはり」  と、つぶやいた。 「荒尾さんは予想していたみたいですね」  と、桂介はいった。 「いや、なんとなくね。というよりは、ぼくが起《た》てている仮説を、側面から立証しているのですよ」  荒尾は言葉を濁し、「いや、これは意外にしてかつ異常な結末を迎える犯罪になりそうだな」 「その科白《せりふ》、シャーロック・ホームズみたいですよ」 「ははッ……」  と、乾いた笑い声をたてて、「ちょっと会いたいね」といった。 「いいですよ。じゃ三十分後に……」  と、約束する。  二人は早速、時計台仲通りにあるロックフォールというコーヒー専門店で待ち合わせることにした。  桂介は、さらに松阪へも電話をかけた……。  ロックフォールは、社から二、三分である。長電話を松阪と東京と京都へかけ終わった桂介は、社を飛び出した。  ごついウッドの椅子とテーブルがある新しい店である。タクシーを飛ばしてきたらしい荒尾は、すでに片隅の席で新聞を広げ、吉野《よしの》ケ里《り》関係のニュースを読んでいた。  まだ午前中で他に客はいない。桂介は、テレックスの情報と酒田刑事から聞いた話を彼に伝えた。  殺人現場は高知市内のラブホテルである。一昨々日(二月二十八日)の夜、ここに宿泊した野々宮数馬の遺体が見付かったのは、翌一日朝であった。  凶器は鈍器のようなものらしく、野々宮数馬は頭を殴られ、頭蓋骨が陥没していたそうである。  高知県警は、その前夜から一緒に泊まったと思われる相手の女を探しているが、はっきりした人相はわかっていない。  この種のホテルでは、最近よく見掛けるように、受付や鍵の渡しかた、料金支払いなどは、直接、顔を合わせるわけではなく、テレビを使っているからだそうだ。 「高知県警は、野々宮数馬の呼んだデートクラブの女だろうと見ているようですね。彼は仕事が仕事ですから、高知まで風俗ビデオの出演者を探しにきたんじゃないか、という見方もしているそうですよ」  と、桂介は話した。 「しかし、酒田刑事さんの見方は、それとは別なんでしょう」 「ええ。野々宮画伯殺しとの関連を調べるために、高知へ飛ぶそうですよ」 「だろうね」  荒尾はうなずく。 「ホテル側の証言では、二十代半ばの女が、二十八日夜遅くきて、先に部屋に入り、男の来るのを待っていたらしい……。先生はどう思いますか」 「女が男を誘いだして殺すには、今のラブホテルは都合がいいからなあ」  と、荒尾は嘆息し、「その齢恰好はまちがいないんだね」 「ええ。顔はサングラスで隠されていたそうですが、若い女であることはまちがいないそうです。で……」  と、桂介は答えて、「ぼくの推理を話していいですか」 「どうぞ、ワトソン君」  と、荒尾はまだ眠そうな目を笑わせて、苦味の強いコーヒーをブラックで飲む。 「やっぱり、野々宮画伯を殺害したのは、弟の数馬ですよ」 「ほう、どうして?」 「例のレシートの裏に書かれていた画伯のメモがヒントですよ。�マ�というのは、数馬の馬のことじゃないでしょうか。つまり、野々宮画伯は、弟に殺されるかもしれないと、不安を抱いていたのだとぼくは思います」 「なるほど、それで数馬のマをメモしたってわけね。一理あるとは思うけど、さあーねえ、どうでしょうか」 「無理な推理でしょうか」 「�臍《へそ》�と�祖母�はどうなるのですか」 「いや、それはまだですけど……」  言葉をつづけて、「けど、彼ら兄弟の間に、われわれ第三者には推《はか》りしれない確執があったのではないでしょうか」 「ふーん」  荒尾は、眼鏡の中の目を光らせた。 「兄弟というのは、母親の臍を媒介にしてつながっている存在でしょ」 「なるほどね」 「そして、二人の確執には、兄弟の祖母がからんでいる」 「…………」  荒尾はしかし、なにもいわず、首を傾げているのだった。 「ちがいますかねえ、この推理は……」 「ぼくは肯定も否定もしません」  と、荒尾はいつもの答えをした。 「それでね、じゃ、野々宮画伯を殺したのが数馬だとして、今度はだれが数馬を殺害したのか。ぼくは、復讐だと思います」 「復讐というと……?」 「野々宮画伯を愛していたか、敬愛していた女性です」 「ほう。というと、二人いるね。一人はあの家政婦だが、大森多津子は若い女とはいえないね」  荒尾は考える目をした。「まさか、あのお嬢さんじゃないだろうね」 「お嬢さんって……、先生、斐美香《ひみか》さんのことですか」  桂介は、ついキッとした顔付きになる。 「いやいや」  荒尾はちょっと驚いた顔で彼をみた。 「今し方、社から電話してみたんですよ」 「ほう、どこへ」 「松阪ですよ」 「松阪というと、ああ、なるほど、野々宮画伯の秘書だね、なんといいましたか、ああ、安原令子ですな、郷里へ帰省中という……。で、彼女がどうかしましたか……?」 「ええ、それがね、二週間も前に、東京へ戻ったって家人がいうのです。しかし、家政婦の大森多津子は、戻っていないという。彼女のアパートにも連絡してみましたが留守番電話でしたし、管理人にも訊《き》いたのですが、ずうっと留守にしているというのです」 「ふん、戻ってないわけか」 「で、ぼくも不安になりまして、斐美香さんの居所を聞いたのです。で、宿泊先の京都のホテルにかけましたら、関西方面では、盛んにテレビのニュースで報道されているらしく、怖いからすぐ来て欲しいというのです」 「で、どうするの?」  荒尾は、桂介の目を覗き込むように見た。 「社用というわけにもいきませんから、有給休暇を取りました」 「行くの? 京都へ」 「ええ、夕方の便で発ちます」  すると、荒尾は、真剣な目をして、何かしきりに考え込んでいる……。 「……でもね、荒尾先生、どうして高知で殺害されたものか、ぼくは酒田刑事さんにも訊ねましたが、理由はまだはっきりしないのです」  桂介はつづけた。 「四国にも邪馬台国説はないわけではないのですがね」  荒尾はつぶやいた。 「へえッ、四国にもその説があるのですか」 「ええ。『邪馬壱国は阿波だった』という本が出ているくらいですよ」(註8)  と、荒尾は教えた。「しかし、ぼくはね、四国は狗奴《くな》系のいわば植民地だったんじゃないかって思うよ。他に紀伊説もあるが普通、狗奴は、九州の球磨《くま》川流域といわれている。クマとクナは音が似ているからね」 「邪馬台国の南に在ると書かれている国ですね。そして、この国は男王を立て、卑弥呼には服属していなかった。つまり邪馬台国とは敵対関係にあった南の強国だったわけですね」 「ええ、そのとおりです」  荒尾はうなずいて、「でね、実は四国に狗奴があったという史料があるのです」 『後漢書』の中の「倭伝」がそれだ。これには、�自女王國東度海千餘里至拘奴國�とあるのだ。 「後漢は魏の前の時代ですが、『後漢書』の書かれたのは『魏志倭人伝』の後です。従って『倭人伝』を参考にしたのは明白なのですが、とにかく女王国から東に一千里海を渡ったところが狗邪(奴)国で、皆倭種だと書かれているんですな。仮に邪馬台国を九州にすると、地図をみてこれに該当するのは四国しかないわけでして」  と、荒尾はつづけたが、突然、口をつぐんで……宙を見る目をしていたが、 「あッ、そうかッあぁ!」  と、あたりに遠慮なく叫ぶ。 「どうかしましたか、荒尾さん」 「いやね、ちょっと待っててください」  と、彼はいって、そそくさと席を立ち、店の外へ姿を消した。     2  いったい何事だろうと思っていると、ほどなく荒尾は、近くにある、なにわ書房という本屋の紙袋を抱えて戻ってきた。取り出したのは大判の時刻表である。彼は慌ただしくページをあちこちめくっていたが、やがて、 「ありましたよ」  といった。「ここです。高知から南紀勝浦行のフェリーが出ている。この便は、高知を偶数日の一八時三〇分に出て、翌日深夜二時二〇分に勝浦に着きます。そして、さらに、東京まで行く便だったんだね」  日本高速フェリーである。  荒尾はつづける。「この高知発の便に、野々宮画伯の黒いキャンピング・カーが、もし乗っていたとすると、事件の様相はガラッと変わると思いますよ」 「なぜですか」 「千歳の刑事さんには教えておいたほうがいいな。キャンピング・カーは、去年十二月二十八日の高知発日本高速フェリーに乗っていたはずだとね」  言葉をつづけて、「殺害場所は、やっぱり新宮じゃなくて、よそから運ばれてきたんですよ。それがどこからかは、まだわかりませんが」 「すると、高知じゃないのですか」  桂介は訊ねた。 「いや、高知かもしれないが、多分ちがうでしょう。もっと西からですよ。きっと」 「西というと九州になりますが」 「かもね……」  荒尾は言葉を濁す……。「しかし、野々宮数馬は真の殺害場所が新宮ではなくて、高知かもしれないと気付いたのかもしらんな」 「それで、彼は高知へ行き、そこで殺されたんでしょうか」 「あるいはね」  と、荒尾は考える目を鋭くして、「いずれ、真犯人がつかまったときに、真相がわかるでしょうが、今はただ想像でしかない。しかし、このことからも推理されますが、野々宮数馬を殺害した人物は、野々宮画伯の身近かにいた者だろうね」 「とすると、消去法では安原令子になります。関係者では他に、若い女はいませんからね」 「ええ、そういうことになる。しかし、君がどう思おうと、警察は一応、斐美香さんも容疑者に入れると思うよ。だって、彼女も若い女にちがいないからね」 「そんなことはありませんよ」  と、思わず強い口調で桂介はいった。  荒尾は、おやっという目をした。 「ちゃんとしたアリバイがあるんですよ、彼女には……」 「というと?」  荒尾は目をしばたたかせた。 「先月、斐美香さんは、大学院の休学手続きをするために、アメリカに戻っていたのです」 「ほう……」  荒尾は、その目に強い色を浮かべた。「彼女は、紀伊へ行って、父親の足跡を探していたんじゃないの……?」 「ぼくも、さっき、大森多津子へ電話するまで知りませんでした。しかし、彼女ははっきりぼくに、お嬢様は、昨日の夕方帰宅されて、今朝早く、画商の北丸安国に会うために京都へ行かれたというのです。そのことは、彼女自身にも確かめましたよ。彼女は昨日午後ニューヨークから成田に着き、真っ直ぐ荻窪の家に帰宅しているんですよ」 「ふーん、アメリカへね。で、いつ行ったの?」 「二月二十五日だそうです」 「というと、ぼくが札幌に帰った翌日か。いずれにしても、二月は二十八日しかなかったんだから、とんぼ返りだね。しかしニューヨークへは十二時間で行ける時代だ。ま、行ったと思ったらすぐ帰ってくる商社マンなんかも多いしね」  と、荒尾はうなずいた。     3  桂介は、その足でアパートに戻り、旅行の支度をすると、車を運転して千歳へ向かった。短い旅行だと、車を空港駐車場へ預けていくのが、地元の人のやりかたである。  千歳からは大阪に直行便もあるが、時間が合わないので、羽田で乗り換えた。  大阪空港からは、直通バスが京都に出ている。一時間ほどである。  市内はすっかり夜になっていた。ホテルは、京都駅の近くであった。  チェックインを済ませて、野々宮斐美香の部屋に電話した。彼女はすぐ行くので、ロビーで待っていて欲しいといった。  桂介は、少しおめかしして、下へ降りる。やがて彼女が現れた。ひと月振りで会う彼女の印象は、ずいぶん変わっていた。まるでボーグの中から出てきたような華やかさがあった。あの支笏湖のキスがあるだけに、桂介はそれを、女性心理で解釈した。多分、彼に対して美しい自分を見せたいと思っているからだろうと……。 「桂介さん、食事はまだでしょ。外へでましょうか」  と、彼女は落ち着いて誘った。 「ええ」  と、うなずくと、斐美香は彼の腕を取った。  桂介は柄にもなく、胸がときめく。女の子とのデートの経験はないわけではないが、これほどの美人とは初めてだったのだ。  タクシーに乗っても、彼女は手を放さない。躯《からだ》を預けるようにして、 「あれからずうっと、あなたのことばかり考えていたわ」  と、耳元でささやいた。  桂介は、素直な気持で嬉しかった。 「支笏湖のことはぼくも忘れません」  と、彼もいった。  湖畔の道端で、斐美香と抱擁しあったときの、あの甘い感触が、ふたたび蘇ってくる桂介である。  彼は、 「ニューヨークで、学校のほう、手続きはうまくいきましたか」  と、訊いた。 「ええ。父のことで後片付けがいろいろあるでしょ」  と、彼女は教えた。「弁護士さんとか税理士さんとか、相談しなければならないことがたくさんあって、あたし、今、忙しいの」 「遺産相続のことですね」 「ええ。母の希望もあるので、母の顔を立てて、荻窪の家は売ることにしましたわ」 「ああ、仲介の不動産屋さんは、お母さんの……」 「ええ。松川さんと母は昨年暮、ハワイのカウワイ島へ行って、秘密に結婚式を挙げたんですって。籍は近く入るそうよ」  とすると、松川伴男は、篠原洲子の愛人ではなく、ちゃんとした婚約者であったことになる。 「あたしは、母たちを祝福しているわ」  と、彼女はしおらしくいった。  言葉をつづけて、「とにかく売らなければ、相続税が払えないんですって。父には悪いけど、仕方がないわね」  当然の話だと桂介も思った。 「軽井沢にも土地があるんですって?」  と、彼はいった。 「ご存じなの?」 「国立先生から聞いたんですよ」 「軽井沢の別荘はそのままにして、将来あたしが使うつもりよ。できれば、父が手紙に書いていたように、あたしも早く日本に帰って、軽井沢に住めたらいいと思っているわ」 「ええ、それは素敵な案ですね」  桂介はいった。 「いい旦那さんが見付かればいいけど……」  なんとなく、桂介を誘っているようでもある。  東山というところでタクシーを降りたが、京都に詳しくない桂介は、ここがどこかよくわからない。  やがて、彼女に案内されて、とある高塀を巡らせた京都料理の店に入る。庭が立派だった。 「こんな店を知っているんですか」  座敷に通されたとき、彼はいった。ふところ具合が心配になる高級店である。 「今夜はあたしにお礼をさせてください」  と、彼女はいった。「ここを教えてくれたのは、北丸さんよ」 「京都には、北丸氏と会う用事できたって、家政婦さんから聞きましたが……」 「ええ、父の遺した絵のことでね」 「ぼくがいうのは何ですけど、北丸氏って信用できるんですか」 「むろんよ。ちゃんとしたかたよ。さっきも、支払いの一部を戴《いただ》いてきましたわ」  彼女は、かすかに笑って、「だから、今、あたしはお金持ちなの……」 「絵は全部、ぎゃるりー北丸に……」 「そう。絵って、素人にはそう簡単にはさばけるものじゃありませんからね」  と、彼女は隠さず話した。  日本酒が運ばれてきた。こった料理も出てきた。さすが京都の料亭である。  酒が入ったせいか、彼女は、いろいろ絵のことを話す。荒尾十郎がいっていたように、野々宮画伯は、自作の他にもかなりの名品を遺していたそうである。  改めて桂介は、斐美香が身に着けているものに注意を払った。バッグやネックレス、そして女性の洋服の値段が、いったいどのくらいするものか、桂介は男だから疎《うと》いとしても、かなりしそうだぐらいはわかる……。だから少し気が滅入った。とても、桂介ごとき新聞記者の給料では、太刀打ちできそうもないからだ。  桂介は酒を控え目にしたが、彼女はかなり飲んでいる。酔いの回った彼女は、別人のようになまめかしい。少しは当惑も感じたが、悪い気はしない。 「とにかく、お父さんの事件は、もう直ぐ全面解決ですね。斐美香さんも、ほっとしたでしょう」  と、桂介は彼女をねぎらう。「厭《いや》なことは早く忘れることですよ」 「ええ、ありがとう」  彼女は桂介を見詰め返してうなずく。「国立先生から、あたし、聞きましたけど、桂介さんのお父さんは福岡出身の政治家なんですってね」 「ええ」 「お兄さんは警察庁のかただそうですね……」 「まあね。けど、父も兄もぼく自身には関係ありませんよ。ぼくはぼくですから」 「千歳の刑事さんも、あなたには一目置いているんですって?」 「いや、そんなことは決してないと思いますよ」 「あたし、知りたいんです。警察は、今、どう考えているのかって……」 「多分、安原令子を探しだして逮捕したら、それで決着だって考えていると思いますよ」 「まあ、どうしてですか」 「ま、これはぼくの推理ですが、あなたのお父さんを殺《あや》めたのは、野々宮数馬ですよ。で、そのことに気付いた安原令子が復讐のために彼を殺害したんじゃないか」 「あたしもそう思います。あたしが、安原さんから、父と叔父がひどく口論したことを聞いたときも、二人でその話をしたんです。でも、証拠がなかったわけ、そのときはまだ……」  と、彼女は話した。「でも、変ね。なぜ高知なんかで安原さんは、叔父に?」 「新宮じゃなくて、高知が殺害場所かもしれないと、彼女が気付いたからですよ。これは、荒尾先生が推理したことですが、高知と新宮はフェリーでつながっていますからね。けど、ほんとうは九州だったのかもしれないと先生は考えておりますよ」 「まさか、九州だなんて……」 「とにかく詳しいいきさつは、彼女自身の口から訊く他ないでしょうね」  と、桂介はいった。 「やっぱり高知よ。ね、こう考えられないかしら。きっと、真相を知られた叔父が安原さんに襲いかかったので、止むを得ず抵抗したの……。そして、正当防衛で殺したと……」 「ああ、それはいえる」  と、桂介もうなずいた。 「けど……」  と、彼は考え込みながら言葉をつづける。 「安原さんというかたには、ぼくは会ったことはありませんが、なにか特別な感情を野々宮先生に抱いていられたんですか」 「ええ」  彼女は答えた。「あたし、父の名誉のことも考えて、黙ってましたが、二人は……」  目をしばたたかせながら言葉を濁す。「だって、安原さんは、あたしと同じ齢よ。娘と同じ年齢の女と愛しあうなんて、あたし、複雑な気持ですわ」 「二人は愛人関係だったんですか……」  そう聞いて桂介も、目をしばたたかせた。七十歳の男と二十五歳の女の組み合わせだからだ。だが、男女の関係は摩訶《まか》不思議なものだから、あり得ないわけではない。 「常識じゃ考えられないわ」  と彼女はいった。「でも、事実なんです。安原さんがそう話しましたもの」 「ふーん。むろん、野々宮先生が亡くなってからですね」 「ええ。安原さんから知らせを聞いて、あたしが帰国したときですわ。実は、お腹の中に父の赤ちゃんがいると、あたし、打ち明けられたんです」 「…………」  桂介は、黙ってその意外な話を聞く。 「つまり、当然、その赤ちゃんには、相続権があるということを、安原さんはおっしゃったのよ」 「というと……あッそうか。事情が変わってきますね」  と、桂介は気付く。「そのことを知った、野々宮数馬が、彼女を高知に呼び出して……」  つまり、もし、直系相続権のある斐美香や安原令子のお腹の子がこの世からいなくなれば、弟の彼に、野々宮画伯の遺産が転がり込むことになるからである。 「ええ。ですから、叔父は、逆に抵抗されて、安原さんに殺されてしまったのかしらって、あたしは思ったりしてますの」 「あり得る推理ですね、十分」  と、桂介はいった。 「安原さん、今、どこにいるのかしら。自首すればいいのに」  目に曖昧な翳りを宿して彼女はいった。「でも、わからないでもないわ。自首せずに、今、姿を隠しているのは、きっとどこかで赤ちゃんを産むためですわ。その子があたしのきょうだいになるのね」  今、きっと彼女は、複雑な気持になっているのだと、桂介は思った。 「叔父さんの葬儀にはでるんですか」  と、彼は訊いた。 「いいえ、だれがあんな人の……」 「でしょうねえ。ぼくだってそうですよ」  彼は相槌をうつ。 「ひどい人よ。許せない人だわ。あたしもあの人には迷惑していたのよ」  突然、怒りの感情が噴出したかのように、口調がきつかった。彼女も気付いたらしく、 「あッ、ごめんなさい、あたし……」 「いや、よくわかります」 「あの人はね、安原さんにも何か迷惑をかけたようよ。彼女がそういってましたわ」 「ほう、というとそれは?」 「破廉恥なことかしら。それとも父との関係を世間に告げるとでもいったのかしら」 「となると、ますます、安原さんの動機は強くなりますね」 「ええ、きっとそうよ。あたしに相談すればいいのに。あたしがアメリカに戻っていたので、相談できなかったんだわ」  といって斐美香は、涙ぐんだ。     4  ずいぶん話した、いろいろなことを……。たとえば、邪馬台国の場所について……。  彼らは、十時過ぎにホテルに戻った。  それぞれに鍵を受け取り、エレベーターの中で、 「お休み……」  といいかけると、彼女は、 「あたしの部屋でお酒を飲みませんか」  と誘う。  桂介はうなずいた。  予感がしていたが、どうもそのような成り行きになりそうである。  ついていくと、彼女の部屋は、三間続きのスイート・ルームである。一晩、きっと十万以上取られるにちがいない。彼女はダイヤルして、ルームサービスを頼む。やがて、高級ブランデーと軽い夜食がワゴンで運ばれてきた。 「着替えてきますから」  彼女はバスに入ったようだ。桂介は、京都の夜景を眺めながら、どうも落ち着けない。ままよと、酔うことに決めた。部屋の明かりは、薄暗くされている。  やがて、斐美香が着替えて戻ってきた。赤紫色のナイティの下は、素肌のようである。窓から届く街の明かりにナイティが透け、それがわかった。彼女は並んでソファーに座り、桂介の注いだブランデーを飲んだ。  男の桂介をうわまわる量である。 「強いんですね」  と、いうと、 「お酒の強い女は嫌い?」  と、いわれてしまった。 「いや、そんなことは……」  口ごもってしまう桂介。 「いつもはちがうのよ。でも、今夜は介抱してくれる人がいるでしょ」  と、斐美香はささやき、ほっそりした手を、彼の膝に置いた。  桂介が黙っていると、 「桂介さんは女が嫌いなの? それとも、あたしが嫌いなの?」  と、訊かれた。 「正直いうと、君がわからなくなってきた」 「真面目なのね」  シルクに包まれた上体も、彼にもたれかかってきた。 「……だから好きなのよ」  と、揶揄《やゆ》する目をする。 「君って見掛けによらず、悪魔的なところがあるんだね」 「ええ、そうよ。あたしは射手座だから、二重人格者なのね。先《せん》によ、あたし、付き合っていた人にいわれたことがあるけど、射手座ってそういうところがあるんですって」 「そうらしいですね」 「単身赴任の商社マンだったわ、彼。でも、安心して。あなたのような若い人じゃないから」  と、彼女はグラスを空にして、ブランデーを催促した。 「ニューヨークには、友だちが多いらしいね」 「そうよ。人種の坩堝《るつぼ》っていうくらいだから、いろんな人がいて刺激的なの。その点、日本って、お金持の国かもしれないけど、退屈なのよね、人間が……」 「じゃ、もう日本には住めないですね」  と、桂介はいった。 「そうね、そうかもね。ね、桂介さん、あたしとニューヨークへ行って住みません?」 「ニューヨークへ行って、ぼくは何するんですか」 「何もしなくていいわ。あたしが養ってあげる。だって、あたしは凄いお金持になったんですもの……」 「考えておきますよ」  桂介は、心にもないことをいった。 「そうして、あなたを奴隷にするの。鎖でつないで、あたしだけの物にするの。男の人って信用できないでしょ」 「信用できる男だって、大勢いると思うけど……」  桂介は、たしなめた。 「そうかしら。あたしはそうは思わないわ。父だってそうだったわ」 「亡くなった人をそんなふうにいっちゃいけないな」 「そうかしら」  突然、彼女は黙りこくった。  桂介は、片腕を彼女の背中のほうから回し、それとなく、ナイティの膨らむ個所に触れさせた。すると、彼女も座ったまま、彼のほうに位置をずらしてきた。  ぴったりと腰と胴が桂介に触れた。ナイティの深く切れ込んだ襟《えり》の間から、手を差し入れ、桂介は、直接、乳房に触れた。  斐美香のそれは、かなり大き目で、少し垂れぎみである。  半丘の下のほうを撫でながら、引き寄せてキスした。彼女は目を閉してキスを受けた。  舌をさし入れながら、彼は、空いていた左の手で、ナイティの合わせ目を探る。前が、すぐ左右に割れた。  彼は、きちんと閉じた太腿に手を置く。彼女は、少しずつ膝を開いて、素肌の脚の付け根の部分に近付こうとする桂介を許す。布地のすべすべした、黒いパンティを斐美香は着けていた。  それから桂介は、暗がりの中で、しばらくじっとしていた。温もりをもった肌の柔らかい感触が、桂介を和《なご》ませた。 「ベッドへ行く?」  と、訊いてみると、 「もう少しこのままでいたいわ」  と、彼女は答えた。 「いいよ」  と、答えた。「けど、もう飲むのはよしたほうがいいな」 「いいわ。あたし、いい子にする……」  言葉をつづけて、「でも、あなたが脱ぐの、あたしに手伝わせて」  彼女はそういうと、桂介の返事を待たずに、慣れた手付きでシャツのボタンを外しはじめた。  桂介は、彼女にされるままにした。  代わって、今度は、桂介が斐美香を脱がせる。生まれたときの姿になった二人は、また、ソファーの上で抱擁した。 「このまま抱きあっているのがいいの」  と、彼女はいった。  桂介は、いわれたとおりにする。今、彼女はひどく素直である。さっき、悪魔的だといった言葉を取り消さなければならないと、彼は思った。零時はとうに過ぎていた。  ベッドへ彼女を運んだのは、午前二時。桂介は世界中の夜を、斐美香と二人だけで独占しているような気がした。  またシーツの上で抱擁する。桂介は、斐美香の秘処を探る。  愛の泉は緩んでいた。わずかに手を加えるだけで、泉が溢れてきた。大きな斐美香の乳房を吸い、彼も高まる。  彼女は身をのけぞるようにして、目を閉じている。 「好きだよ」  と、桂介はいった。  彼女は、何もいわない。 「愛しているよ」  と、いった。  彼女は、かすかにうなずいた。  桂介は、身を彼女の上に重ねる。彼女は下肢を開く。高まっている彼の徴《しるし》は、秘園の裂け目に触れる。ゆっくり沈め、結合した。  斐美香は、かすかに声をあげた。 「愛している」  耳朶《じだ》を軽く噛みながら囁いた。「ぼくは今、君の中にいるよ」  彼女は、目を閉じたまま、両腕を彼の首に巻き付けてきた。腰が持ち上がる感じで、脚をもからめてきたので、彼らの接点が面に変わった。  その先は、彼女のほうが積極的だった。男を知り尽くしているように、桂介をリードした。  まるで、人が変わったみたいだった。全身に広がりはじめた感覚に襲われているのだろうか。いっせいに体中の神経が活性化しているかのように、彼女の眉が歪み、断続的に声を挙げた。鼻孔が膨らみ、息を荒くした。唇を重ねると、彼女は強くそれを押し付けてきた。腰の動きも激しくなる。かと思うと、桂介よりも先に昇りつめたらしく、しきりに頭を振った。  とうとう彼も堪えられなくなる。斐美香の深部で、桂介は、了《おわ》る……。  深い眠りがその後にきた……。  桂介は、翌朝までぐっすり眠った。目覚めたのは、七時ごろだった。外は雨が降っていた。桂介は、今日、一日、この部屋で斐美香と過ごすのも悪くはないと思った。  しかし、彼女はベッドにいなかった。起きだして探したが部屋にもいなかった。 (買い物に行っているのだろうか)  が、そのとき、彼は不審を抱いた。彼女の荷物がなくなっていたのだ。  フロントに電話して訊いてみると、すでにチェックアウトしているという。 (いったい、どうしたというのだろう)  とりあえず自分の部屋に戻り、桂介は考え込んだ。     5  しかし、考えても、何も思考がまとまらなかった。桂介の目蓋《まぶた》の奥には、昨夜、斐美香が見せたあの悩ましい嬌態《きようたい》のみが再現される。今日、彼は、はっきり彼女に結婚の申し込みをするつもりだったのである。  桂介は、ダイヤルを回して、札幌へ電話した。掛けたのは荒尾十郎のところである。 「やあ、どうしました」  まだ寝ていたらしく、眠そうな声が響く。 「実は、ぼく、妙なことになっちゃったんです」  信頼できる相手だから、桂介は包み隠さず話した。 「ほう、彼女がいなくなった? ふん、そりゃ、変だねえ」  と、荒尾もいった。 「どうすればいいでしょうね」 「昨日、君は彼女にどんなことを話したの?」 「ま、いろいろですが……」  と、説明すると、 「……すると、彼女にぼくの説も話したんだね」 「ええ、本当の殺害場所は、新宮でも高知でもなくって、九州かもしれない……、と荒尾先生が考えているとね。まずかったですか」 「いや、別に」  と、荒尾はいった。「ま、君の話はわかりました。ところで、昨日、あれからぼくは千歳に行きまして、酒田刑事さんと話してきたんですよ。刑事さんは今日にも高知へ飛ぶ予定ですが、ぼくもそちらに行きます」 「高知ですか」 「いや、京都ですよ。で、君にも仕事をしてもらいたいので、そっちで待っててくれませんか。それから、その間に、ぎゃるりー北丸へいって、北丸安国に会ったらいいでしょう。婚約者とでも名乗って、斐美香さんの行き先を訊くといい」 「ええ、わかりました」 「しかし、ぼくと君との関係はしゃべらないこと、いいですね」  と、桂介は念を押された。 「約束します」 「それから、斐美香さんですが、たしかに君のいったとおり、二月二十五日、ニューヨークに戻ってますね。刑事さんのほうで、成田に問い合わせてわかったそうです」  そう聞いて、桂介は、ほっとした。なんとなく、心配だったからである。 「アリバイがあるということですね」 「ええ、二つの殺人事件については、アリバイが成立するということです。しかし、また、第三の事件が起こるかもしれない。いや、こう話しているうちにも起こったりして……」 「あまり脅かさないでください」 「ははッ」  受話器に響く荒尾の笑いは、乾いていた。  早速、桂介は、ぎゃるりー北丸を訪ねていった。場所は四条で、ビルの五階にそれはあった。  午前中で来客はない。常設展示中の画廊で、北丸と話した。  事情をいうと、 「ほう、すると、あなたが斐美香さんの話していたかたでしたか。昨日ここへきたとき、あなたの噂をしておりましたよ」  と、画廊主はいった。「しかし、あなたに告げずにホテルを出られた理由は、わたしにもわかりませんが、斐美香さんは、今日、ニューヨークに戻ると、わたしには話していましたがね」 「ああ、そうだったんですか」 「きっと、別れが辛かったんじゃないですかね。あなたたち、昨夜はずっと一緒だったんでしょ」 「ええ、まあ」  と、うなずくと、 「すぐ、向こうから国際電話がかかりますよ。待ち時間ゼロで掛かりますからね、日本には」  そう画商にいわれると、桂介もそうかもしれないと思った。昨夜《きのう》の今日では、顔を合わせるのが恥ずかしかったのかもしれない……。  桂介は、礼をいって画廊を出た。だが、まだ荒尾の到着には、時間がありすぎる。ホテルに帰って待つのももったいないと思い、彼は、タクシーを呼びとめて、「嵯峨野《さがの》へやってください」といった。 「あいにくの、雨ですなあ」  と、中年の運転手がいった。  念仏寺までやって貰い、そこで降りた。雨は止むどころか氷雨になりかねない寒さである。�化野《あだしの》�の文字が目に入る。寺には小石塔がたくさんある。  天候のせいか、人影は少ない。桂介は憂鬱な気持で両側に店の並んだ道を下る。雨はときに激しく、また弱くなった。体が芯まで冷えた。  斐美香に恋してしまった自分を、彼はひしひしと感じていた。こんな気持になったのは初めてである。せつないのだ。不安なのだ。二度と、彼女に会えないかもしれないという予感が、なぜか彼にはあった。  途中で、檀林《だんりん》寺というところに寄った。門跡寺である。寒そうにした品のいい女性が、出てきて説明してくれる。  ここに、卑弥呼の鏡と称されるものがあることを、桂介は知っていて訪ねたのだ。宝物館の中の雑多な陳列品に交じってそれはあった。  直径が十二、三センチほどの小さな青銅鏡であった。それが果たして邪馬台国の鏡かどうかは、|?《クエスチヨン》マークがつく。おそらく日本で鋳造された和鏡だろう。ともあれ、『魏志倭人伝』に出てくる百枚の鏡、それは魏に朝貢した倭の使節に託されて、女王卑弥呼に贈られたものだが、だいたいそれに似たようなものであったことは想像できる。  荒尾十郎によると、この魏鏡の行方が学界の論争の種になっているらしい。果たしてそれがどこへ散ったものか、今のところはわかっていないからである。  おそらくは、それは卑弥呼の権威の象徴として、まだいずくにあるとも判明しない卑弥呼の墓に埋められているにちがいない……。  観覧を終えた彼は、雨に濡れながら、とある店に飛び込み、うどんをすすって体を暖める。  タクシーをつかまえて、ホテルに戻ると、フロント係が彼にメッセージを渡した。見ると、斐美香から彼宛に届いた電話のメモだった。�黙って発ってごめんなさい。I LOVE YOU。成田にて�と、メモされていた。桂介のふさぎこんだ鉛色の心にぱあーっと光が射す。  部屋に戻ってまもなく、荒尾からの電話。 「今、チェックインしました。下に降りて待ってます。ああ、それから写真機もってますか」 「ええ」 「フラッシュ付きですか」 「ええ」 「じゃ、それを持ってきてください」  桂介は濡れた靴下を履きかえ、まだ湿っているレーンコートを下げてロビーに降りた。 「まだ時間がありますので、コーヒーでも飲みますか」  と、荒尾は誘った。 「なにをされるつもりです?」 「絵を買うんですよ」  といって、段取りを説明してくれた。 「多分、これで、一件落着すると思うね」  と、荒尾は自信ありげである。「酒田刑事さんとも打ち合わせ済みで、明日には高知から京都にくるはずですよ」と教えた。  言葉をつづけて、「で、飛行機の中でも考えてきたのですがね、ひょっとすると、野々宮画伯の考えた邪馬台国は宇佐かもしれないね」 「宇佐なら神津恭介と同じ説じゃないですか」 「ま、そうですがね」  と、コーヒーをうまそうに飲む。「宇佐説をとるには、例の松浦半島の謎に従い、東西南北がちょうど九〇度反時計回りにずれるという仮説にしたがわなければなりません。たしかにその仮説をとるなら、末盧《まつろ》からの東南は、地図の上では北東になる。すると、定説どおりに伊都《いと》国や奴《な》国が糸島半島と福岡博多になるわけです」 「先生の狗邪《くや》韓国が北九州にあったという説を覆すわけですね」 「そうとはいってません」  と、荒尾はかすかに笑った。「ただ、多くの九州説がとる百里が五キロから八キロという説に従えば、宇佐が邪馬台国になるわけです。で、実はこれが、北丸安国にしかけるトリックなんですが、そのわけは決着がついたときに教えます」  と、荒尾はいった。  言葉をつづけて、「問題は、この宇佐説をとれば、野々宮画伯の殺害場所は宇佐です。とすると、宇佐からどうやってキャンピング・カーを高知へ運んだか。ああ、桂介君、いいわすれましたが、酒田刑事さんが調べてくれて、暮れの二十八日一八時三〇分発の高知発日本高速フェリーにそれが乗っていたことが判明しましたよ……」 「やっぱり」 「ええ、ぼくの推理が的中した。で、宇佐から高知までの移動経路ですがね、車を別府まで走らせ、四国の八幡浜へフェリーで渡り、また陸送で高知へきたと思うよ」 「可能なんですか」  桂介は訊いた。 「可能ですよ。たとえば、九時四五分別府発に乗れば、一二時一五分に八幡浜に着く。八幡浜から走って高知発一八時三〇分に乗るのは時間的にぜんぜん無理じゃないですからね」 「で、実際はどうなんですか」 「今、調べているところです」  荒尾はふたたび言葉をつづけ、「でね、この宇佐説なら、北丸安国が野々宮画伯殺害犯人になる可能性も出てきますよ」 「えッ? どうしてです。彼は、シンガポールへ行ったんじゃないのですか」 「ええ、十二月二十八日にね、福岡国際空港から出発しましたよ。ところが、彼のアリバイは深夜零時から朝六時まではないのです。ですから、殺害場所が新宮ならたしかに無理でもね、宇佐なら可能になるのです」  たしかに深夜の国道を走れば、福岡〜宇佐間の往復は楽々可能だ。九州自動車道を使えば、小倉東まで、一二〇キロ以上で飛ばせるからである。その先宇佐までは六〇キロほどである。 「でも、車は?」 「盗むこともできるし、借りることもできる。それを今、調べてもらっておりますがね」 「しかし、それだけでは決め手にならないでしょう」  桂介は首を捻った。「誤認逮捕すると問題ですよ。第一、ぼくはまだ真犯人は、殺された野々宮数馬と思っています」 「だから、別件で逮捕するんですよ」  と、荒尾は教えた。     6  荒尾十郎は時計を見て、「まだ時間がある」と告げた。電話で北丸安国にアポイントメントをとったらしい。 「さて、岩都君」  と、彼は改まって、「今の段階で、一応ぼくが宇佐説に傾いた理由を説明しますとね、例の画材のレシートの裏に書かれていた野々宮画伯のメモなんです。あの三つの単語、�マ��臍��祖母�のうちの�祖母�というのは、グランドマザーのことではなくて、地名じゃないでしょうか。これを見てください」  彼はそういうと、道路施設協会の『九州自動車道マップ』を取り出して開いた。 「ここに祖母山というのがあります」  阿蘇山と日豊海岸国定公園の間、祖母傾国定公園内の山である。標高は一七五七メートル。 「なるほど、宇佐の真南ですね」  覗き込んだ桂介はいった。 「実はね、生前、ぼくが野々宮画伯に会ったときの印象では、あの先生が古代言語を研究しているらしいことはわかりました。現に娘さんの名を斐美香としたことでも想像できるわけですが、とにかく、この祖母山というのは錫《すず》の採れる山なんですよ。事実、今でも錫鉱山がある。ところが、錫は青銅器を作る原料でしょ」 「ええ。銅に錫を交ぜてつくられるのが青銅です」 「ぼくはね、そこで邪馬台国が三世紀の世界で倭の強国になりえた理由を考えたのです」 「なるほど、先生のいう産業考古学ですね」 「古代では、青銅は重要な交易品であったと思う。また、青銅の武器を持つことで、邪馬台国は、古代倭を制圧できる軍事強国にも成りえたわけです」 「今と同じですねえ」 「ですから、邪馬台国という国は、青銅器の原料を産出した場所にちがいないという仮説が一つ成り立ちます」 「そういえば、吉野ケ里遺跡にも、青銅器の鋳造工房らしきものが見付かったっていいますね」 「ええ。しかしその原料はどこからきたのか。韓国から輸入されたのかもしれませんが、邪馬台国産の錫と銅だったのではないでしょうか」 「もう一つ、古代社会では、朱が黄金にも匹敵する価値があったといいますね、先生。吉野ケ里遺跡でも、その朱を塗った甕棺《かめかん》がでましたね」 「ええ、そうなんですよ。朱は魔除けという呪術的意味があり、古代人には尊重された。吉野ケ里のものは品質のいい中国産のものだろうと学者さんたちはいってますね。しかし、朱は邪馬台国でも採れたはずだとぼくは思う。まだどこかはわかりませんが、しかし、青銅原料と朱のとれた場所こそ、古代倭の覇者《はしや》にふさわしい強国、邪馬台国のあった場所にちがいないということはいえるんじゃないでしょうか」 「それが、宇佐ですか」 「いや、ほんとうは宇佐じゃないね、やっぱり。ぼくは、宇佐はやっぱり狗邪韓国の一部だと思うのです。ただ、野々宮画伯は宇佐を邪馬台国と考えたかもしれないといっているだけなのです」  言葉をつづけて、「『魏志倭人伝』の中に、斯馬《しま》国以下二十一ヵ国を列記している個所があります」(第二章1節、十) 「ええ。学者たちが今度みつかった吉野ケ里遺跡がその一国だろうといっている個所ですね」 「安本美典氏の説が某紙に載っていたのを見ましたが、音韻学的に分析して、吉野ケ里は華奴蘇奴《かなさな》国かもしれないという。もう一つは、新井白石に端を発する三根郡との類似による弥奴《みな》国説だね。しかしね、ぼくは吉野ケ里は、きっと烏奴《あな》国と思う」 「根拠はおありなんでしょう」 「一応はね」  と、荒尾はうなずき、「『倭人伝』の今いった個所の終わりをみると、�此れ女王の境界の尽くる所なり�とある。この文脈どおり素直に読めば、この二十一の国は、女王国つまり邪馬台国の境界線に並んでいる属国だっていうことになる」 「ああ、そうか」  桂介は相槌をうった。「この節には、�女王国より以北は……�とありますものね」 「ところがね、ここで、邪馬台国研究家の間では有名な疑問点が出てくる。みんなそれで困っているわけです。二十一国の最後は奴国ですよ。『倭人伝』には、この奴国が二つ出てくるのです」 「あッ、そうですね」  桂介も気付く。「伊都の東南百里にあるのが奴国だって明記されておりますものね」(第二章1節、六) 「ですから、この二つの奴国を矛盾なく説明するにはですよ、通説の福岡博多に奴を置くのは無理なんですよ」 「じゃ、どこなんですか」 「ぼくは素直に読んで、末盧つまり伊万里湾の東南でいいと思うね。そこに、二万余戸を要する倭第三の大国、奴国の北の境界線があったと思うわけです」 「というと?」 「島原、長崎、西彼杵《にしそのぎ》半島一帯の広い地域だったんじゃないか。入り組んだ湾の多いこの地域に、沿岸漁労民であった奴(魚)がいたのではないだろうか。でね、そう仮定すると二つの奴国が矛盾なく説明できます。ま、このぼくの作った地図を見てください」(巻末「邪馬台国之図」参照=電子書籍版では割愛しました)  と、荒尾はいった。「邪馬台国の北の境界は、九州横断道と大分自動車道に沿って存在していたはずです。この自動車道は、ちょうど北九州の筑紫山地に沿っているが、これは地盤がいいからでしょうね。つまりね、北方の強国、狗邪韓国とは山脈の障壁でさえぎられているわけですよ」 「軍事学的にも納得できますね」 「そのとおりです。軍事学の基本は、昔も今も同じですからね。で、女王国はここに多くの砦の機能をする小国を配した。ま、国とはいえない小さなクニですがね、吉野ケ里もその一つだったのですよ」 「納得できます」  と、桂介は地図を眺めていった。  最東の鬼《き》国から最西の奴《な》国までの九ヵ国がほぼ横一線に並んでいた。 「ま、仮説の仮説みたいなもんですがね、国東《くにさき》に鬼国を充て、耶馬渓《やばけい》に邪馬国を、杷木町《はきまち》に巴利《はり》を充てたところが味噌でして」  と、いって荒尾は笑った。  言葉をつづけて、「で、斯馬《しま》国から華奴蘇奴《かなさな》国までの十二ヵ国は、九州東岸の入り組んだ海岸に沿って存在した小国だったと想像します。ここまでが邪馬台国の領域であったので、神武東征の際にも、この海岸は通り越し、いきなり国東半島を越え、宇沙(佐)に上陸している。さらに神武の航海は、瀬戸内海に入ると、今度は四国を避けているでしょう。つまり、当時、四国には強力な狗奴族が住んでいたからじゃないでしょうか」 「遺跡はどうなんですか」  桂介は訊いた。 「ええ、九州横断道に沿って多いですよ」 「つまり、荒尾さんの説は、この地図のように阿蘇を中心にした半径六十キロの範囲が、女王国だというわけですね」 「ええ、それが邪馬台国でもあるわけですが、女王の都する所ではない。卑弥呼の宮は、この円内のどこかにあるね」 「となると、レシートの�臍�というのは、阿蘇ですかね」 「かもしれないが、宇土《うと》半島かもしれないよ。こうして九州をつくづく眺めると、なにやら角のある人の姿に見えるでしょ。芦屋《あしや》がその頭の天辺になるよ」 「ああ、ほんとうだ」 「芦屋は神武天皇が留まった場所|筑紫《つくし》の岡田宮でもあるしね、何やら意味ありげでしょ。さらに唐津《からつ》が肩になり、薩摩《さつま》半島と大隅《おおすみ》半島が両脚になる」 「ああ、となれば、有明《ありあけ》・八代《やつしろ》海に突き出している宇土半島が臍にみえますねえ、たしかに……」 「でしょう」  荒尾は機嫌がいい。「ま、その話は先のことにして、また話を戻しますがね、問題の祖母山のソボですが、日本古代語だと、�朱の山�になるんですよ」 「ほんとうですか」 「ソホといえば朱・赭を指すからですよ」 「出ましたねえ……、朱が」 「しかもタミル語起源らしいね、この言葉は。大野|晋《すすむ》氏の本に書いてあります」(註9)  と、荒尾の説明は澱《よど》みがない。  つまり、ソホ(祖母)は、赤い粘土のことであり、サバといえば粘土質の土地をいうが、タミル語ではcavatuがこれに相応する言葉なのだそうだ。 「ですから、祖母山というのは、�朱の産出する山�という意味の他に、�青銅器を作る鋳型用の粘土のでる山�とも考えられないでしょうか」 「あり得ますね」  桂介はうなずいた。 「さらにいうと、例の�マ�ですが、日本古語では馬のことですがね、タミル語では野獣の意味ですよ。古代の日本人が初めて対馬海峡を渡ってきた馬を見たとき、馬を野獣と思い、マと呼んだのかもしれない」 「すると、レシートの�マ�は野獣(馬)のことだったんですか」 「かもしれない。そうでないかもしれない。しかし……」  と、荒尾はいいかけたが、時計を見て、「時間ですね。その話はまた後で」といった。     7  荒尾十郎は、岩都桂介を外に持たせて、先にぎゃるりー北丸に入っていった。  絵を買うと約束しているので、北丸安国は愛想がよかった。野々宮太郎の絵は、すでに事務所の壁に沿い、立て掛けられて用意されていた。  荒尾は、丹念に見ながらいった。 「この前、東京で野々宮画伯のデッサンをわけてもらいましたが、眺めているうちに、タブローが欲しくなりましてね、こうして札幌から参ったわけですが、いいですなあ」  画商は、商売上手に勧める。 「じゃ、これにしますか」  と、荒尾は八号の風景画を一点を選ぶ。価格は七十万ほどだった。 「相場より少し安目ですなあ」  荒尾はニコニコした。 「お詳しいですな。ええ、うちは、利益なしの商売ですよ」  そのとき、岩都が画廊に入ってきた。 「さきほどはどうも」  と、彼は、事務所を覗いて挨拶した。「近くをまた通ったので、絵を見せてください」 「ああ、どうぞ」  画商は岩都を無視して、大事な客のほうに向かう。 「お支払いは?」 「現金です」 「領収書は」 「いただきます。題名と号数もお願いします」  その取引の様子を、桂介は、荒尾に指示されたとおり証拠写真に撮る。フラッシュが使われたため、画商はけげんな顔をしたが何もいわなかった。  撮影の間にも荒尾は話した。 「いただいたこの野々宮太郎の作品ですが、直接、野々宮先生から買われたものでしょうな」 「ええ。うちは先生と専属契約をしておりましたから」 「あなたが直接に」 「ええ。東京のお宅に伺っていただいたものですよ」 「じゃあ、安心だ。ちょっとね、東京の画商の知り合いから、野々宮太郎の贋作《がんさく》が出回っているという噂を聞いたもんで」 「ご心配なく。たしかなもんですよ」  画商はそう荒尾にいわれて、当惑げな目をした。  取引が済み、荒尾はぎゃるりー北丸を出た。岩都も後に付いてきた。 「はっきりいって、これは偽物ですよ」  と、荒尾はいった。 「どういうことですか」 「偽物だからこそあの男から買ったのです」  といって荒尾は、テープレコーダーをポケットから取り出して、スイッチを切った。 「さてと、明日、君に撮ってもらった取引の現場の写真にテープを添え、彼を詐欺罪で告発します。ちょっと後味が悪いが、彼を引っ張るにはこれしかないんでね」  と、教えた。  翌日は忙しかった。荒尾は京都にきた酒田刑事にも会い、入念な打ち合わせをした。  翌々日、酒田刑事は京都署の刑事の応援を得て、北丸安国の自宅に滞在していた大森盛児を引っ張った。  その後の詳細を荒尾は知らないが、気の弱い大森は、半日も経たぬうちに、贋作の事実を認めたようだ。引きつづき、北丸安国も引っ張られた。  ——荒尾十郎と岩都桂介が、取り調べの結果を知ったのは、札幌に戻ってからである。二人は千歳署に赴《おもむ》き、酒田刑事の話を聞いた。 「結果をいうと、あの二人は、野々宮太郎の贋作については認めました。専門家の鑑定もあって、証明されたからですよ。しかし、肝心の野々宮画伯殺害への関与は、頑として否認しています。われわれも、彼らにアリバイがあること故、深くは追及できずにいるのです」 「刑事さん、例のスケッチの年賀状はどうなりました?」  と、荒尾は訊いた。  彼は、それは、新宮で買った絵葉書を見て大森盛児が描き、投函したものと推理したからだった。 「認めませんな。それから、キャンピング・カーに積まれていた描きかけの油絵もです、大森の仕業だろうと追及しているのですが、だめですな。しかし、贋作詐欺罪では告発されて、新聞にもでましたから、その件では社会的制裁を受けています」 「もう保釈したのですか」 「いいえ、まだ。しかし勾留期限がありますからな、そう長くは……」 「すると、やっぱり、アリバイが問題ですか」  と、荒尾は肩を落とした。 「いや、そうでもありませんよ。先生にいわれて、わたしも宇佐で殺害されたという仮定に立って、捜査してみたのです。すると、おもしろいことがわかった。野々宮画伯のキャンピング・カーは、別府発にも臼杵《うすき》発のフェリーにも乗っていなかったが、佐伯《さいき》発に乗っていたんですよ」 「ああ、やっぱり九州でしたか」 「十二月二十八日午前七時発の関西汽船に乗っていたのですな、それが。このフェリーは午前一〇時に四国の宿毛《すくも》に着きます。ですから、一八時三〇分高知発に乗るのは十分すぎるほど可能です」 「佐伯でしたか」  荒尾は考える目をいっそう光らせた。  ——ここまでのまとめをいえば、やはり、野々宮画伯は九州のどこかで殺害されたのだ。まだその場所、つまり�マの邪馬台国�は特定できぬにしてもだ。  それが宇佐にしても甘木にしても、北丸安国のアリバイは崩れてしまう。 「車の件ですがね、彼は二十七日夜、その日、中洲に付き合った福岡の不動産屋から、自家用車を借りているのですな。レンタカーを借りなかったのは用心深かったとしてもです、わたしにはぴんときましたよ」  蓋《けだ》し、老練な酒田刑事の勘は見事だ。 「ですから、二十七日深夜から翌朝六時までの間に彼が動ける行動半径はかなり広いということがいえますな。シンガポール行きは、この車を使った彼の犯行計画を隠す擬装だったのでしょうな」 「大森盛児の共犯関係はどうなりますか」  と、荒尾が訊く。「�マの邪馬台国�から佐伯へキャンピング・カーを移動させるのは、時間的にいって、北丸安国には不可能ですから」 「ええ、われわれもそう考えています。しかし、大森盛児は、自分は十二月初めから一月十日までヨーロッパにいたとアリバイを主張しているのです。しかし、ひそかに帰国した可能性もあると思い、入国審査を調べましたが、その気配はまったくないのです」 「そうですか」  荒尾は首を捻る。 「で、二十七日夜の車の件ですが、北丸を追及したところ、自分は車が好きで、不動産屋の車が輸入車のランボルギーニだったので、つい試乗してみたくなり借りたというのですな。それで、ホテルに帰ったのは遅くなったが、深夜のドライブをしたと彼はいうのです」 「なるほど、辻褄は合うようですな」  荒尾はいった。「で、行き先は……」 「熊本市だそうです」 「熊本?」 「ええ、九州自動車道が整備されているので、深夜なら一時間で行けるそうです」 「なるほど。で、確認は?」 「いいえ、今、調べています。……さらに、問題は」  と、酒田刑事はつづける。「二月二十八日夜から三月一日の朝にかけて殺害された野々宮数馬の事件でありますがね、このとき、彼ら二人には完全なアリバイがある。検死解剖では二十八日午後十一時から十二時にかけてとはっきりしているのですが、二人はそのとき東京にいて、いきつけの銀座のバーで飲んでいたのです」 「安原令子の行方はまだ判明しませんか」 「ええ。探す手掛かりもない状況です」 「刑事さんは、野々宮数馬殺しは彼女だとお考えですか……」 「お答えしかねますなあ。しかし、高知へ出向いて調べた結果からも、岩都さんから聞いたとおり、野々宮画伯の子供を安原令子が宿しているというのなら、動機はあるわけです……」 「もう一度話を戻しますがね、刑事さん、北丸安国は、宇佐殺害説にどう反応しましたか」 「ええ、話しましたよ。邪馬台国を被害者が探しに行ったのなら、宇佐は重要な候補地だとね」 「認めましたか」 「いや、北丸は、自分も邪馬台国問題には関心があるが、宇佐のはずはないと強くいい切っておりましたよ。しかし、何か隠してますな。北丸は、例の�マの邪馬台国�ですか、野々宮画伯の探していたその場所を知っているのかもしれませんな」 「いったいどこでしょうなあ。彼は、その晩、酒は飲んでいなかったそうですね」 「ええ。元々彼は酒はほとんど飲めないたちらしく、従って、車の運転も十分可能であったわけですな」  と、そのとき電話が鳴った。 「福岡からです」  と、若い刑事にいわれて、酒田が出る。しばらく話していたが、終わり、彼らに向き直り、 「いやはや、また振り出しのようです。今、捜査協力を頼んであった福岡から連絡がありまして、北丸安国のアリパイが成立しました」 「と、いいますと?」  荒尾が目を見張った。 「当夜、彼はたしかに借りた車で外出しています。しかし、行き先はやはり宇佐ではなかった。彼のいうとおり熊本でしたよ」  北丸安国は、熊本の深夜営業のガソリン・スタンドで給油しているのだ。珍しい車だったので、カーマニアの従業員が覚えていたのだ。 「時間は、午前四時ごろで、美人の若い女が同乗していたらしい」 「ほう」 「ちょっと待ってください」  と、酒田刑事は席を立ったが、三十分もして戻ってきて、 「京都へ電話して確認しましたが、その女は、中洲で拾った女で、名前は忘れてしまったと、本人がいっているそうです」 「彼、ホモだと思っていましたが、両刀使いでしたか」 「らしいですね。その点も本人が認めているそうです」  ——こうして、�マの邪馬台国殺人事件�は、ふたたび、その真相を霧の中に隠したのだ。  岩都桂介は、北丸安国の車に同乗していたのが、ひょっとすると、現在行方不明の安原令子ではないかと思った。理由ははっきりしないとしても……。  三月八日、社にニューヨークから電話がかかってきた。むろん、野々宮斐美香からである。彼女は、黙って去ったことを彼に詫び、理由をいった。 「あたし、日本にいるのが不安だったんです。ひょっとすると安原さんが、あたしの命を狙っているんじゃないかって思うと、居ても立ってもいられなくなって……。早く日本を離れたほうが安全だって思ったの」  そう説明を受けて、桂介のわだかまりは完全に消えた。斐美香は野々宮太郎の遺産相続人だからである。そして、安原令子にとっては、事情を知りすぎている人物だからである。  斐美香はさらに、事件の捜査情況を彼に訊ねた。もとより隠すことではないので、桂介は、話してやった。 「ぼくは、荒尾先生とも話しましたが、もし安原令子が見付からなかったら、この事件は迷宮入りするだろうって」 「まあ」  地球の裏側から彼女の声が届く。「あたし、真犯人が見付かるまで、日本に帰れませんわ」 「そうですか、残念だな」 「桂介さんがこちらにいらっして。休暇をとって……」 「そうだなあ、考えてみます」 「京都の夜はほんとに楽しかったわ。あれからね、あたし、毎晩、あなたのことばかり想っているのよ」 「そうですか」  桂介は、彼女の寝姿を想像して、顔を一人で赤らめた。 「じゃあね、また電話する。捜査のことも聞きたいから」  電話が終わってからも、しばらく桂介はそのままじっとしている。同僚に「おい、どうしたの?」と注意されるまで。  ——が、その日の夕刻、意外なニュースが飛び込んできた。  松阪市郊外の山林の中で、若い女性の全裸死体が発見されたのだ。検視の結果、死亡推定日時は、約三週間前。他でもない、この女性こそが、行方不明中の安原令子であることは、すでに、家人によって確認されていた……。  第六章 始度一海千餘里     1  春分の日、岩都桂介は、荒尾とともに福岡に着いた。九州に来たのは、北門タイムスの特別企画取材のため。もちろん、�マの邪馬台国�を探しだすという目的もある。なぜなら、その地を発見することが、おそらく、事件解決の糸口を開くであろう。捜査のほうが、あれから行き詰まっていたのだ。贋作絵画詐欺事件では立件できたものの、北丸安国と大森盛児の両名は保釈されていた。  飛行機で福岡入りした桂介と荒尾は、早速、空港でレンタカーを借りる。桂介が運転し、荒尾はナビゲーターを務める。車は、高速道路の建造物が折り重なっている博多駅付近を通り抜けると、最初の取材地、志賀島へ向かった。ついシガジマと読んでしまうがこれは誤り。『筑前国風土記』逸文に、資珂嶋とあるとおり、呼び名はシカノ島である。  車は博多湾を左手に見て、湾に沿った高速道路を走る。やがて高速を降りると道が混み始める。道は香椎《かしい》線に沿っていた。ここが奈良時代からその名のある海の中道で、志賀島との間に出来た大きな砂嘴《さし》である。  博多湾は、こうして見るとかなり大きく、波も高い。これで、古代船の港として機能したかどうか。 「『倭人伝』の時代は、せいぜい十五メートル程度の船でしたからね、港としては、湾ではなく、浦といった感じの入り江がふさわしいはずですよ」  と、荒尾は話した。  渋滞の道を行き、志賀島につく。橋がかかっているが、本来は独立した島である。来てみるとわかるが、砂浜などのない、ごろんとした感じの小島で、山は海岸まで急斜面で迫っていた。 「岩都君は福岡生まれでしたね」  と、荒尾。 「ええ、小学校のとき、ここへはよく遠足や海水浴できましたが、昔からこんな感じでしたね」  と、桂介は答えた。  荒波を防ぐテトラポッドなども投入されているのだった。  橋を渡って道を右手にとる。志賀島の面積は六平方キロ足らずである。 「おかしいなあ」  と、荒尾がいった。 「なにがですか」 「ここで金印が発見されたのはたしかですが、ほんとうなのかなあ。いやね、現場をみて初めてわかりましたが、船がこの島にぶつかって難破したんじゃないのかなあ」  しばらく行くと、金印公園なるものが、島の西側の急斜面に作られていた。辛うじて車を道端に停める。階段をかけあがり、金印をかたどった碑の前で写真を撮った。が、車が混んでいるので長居はできない。車に戻る。いろいろ説があるらしいが、この道の下あたりが昔は狭い水田になっていて、そこから発見されたという。  市内へ戻る渋滞ぎみの道すがら、荒尾は桂介に金印発見当時の事情を話した。 「金印発掘口上書なるものがあるのです。それによると、天明四年(一七八四)に百姓、甚兵衛なる者がね、叶崎というところで岸を切り崩して水田補修中、二人で抱えるほどの石の下から、偶然、金印を見付けたというのです」  しかし、この場所がどこと確定しているわけではなく、また副葬品もなかったことから、江戸期より様々な憶測があるのだ。  すなわち、遺棄説、漂着説、隠匿説、紛失説、墳墓説、ドルメン説、隔離説、支石墓説、磐座《いわくら》説、祭祀遺跡説などである。(註10) 「さらに、この『漢委奴国王』と刻まれた印には二つの読みかたがあるわけです。�委奴《いと》�とつづけて伊都と読む。もう一つは�委�を倭にとり、委《わ》の奴《な》とする読みかたですが、主流は後者に傾いているらしいね」  荒尾は言葉をつづけて、「しかし、『日本書紀』に儺県《なのあがた》・那津之口《なのつのほとり》とある事実ですが、二、三世紀に、ここが奴国であるとするのはどうなんでしょうか。あえて、定説にぼくは反論したいです……」  荒尾の説では、中国もしくは朝鮮半島経由で海を渡ってきた船が志賀島で難破し、積まれていた問題の金印が流失し、行方不明となった。そして荒波にもまれて土中に埋まっていたそれが、千七百余年後に発見されたのではないか——というのだ。 「真相はですね、その金印を積んだ船は、嵐を避けて博多湾に避難しようとしていたのかもしれない。あるいは、博多は単なる寄港地で船はさらに他へ回航しようとしてたのかもしれないでしょ。つまり、さらに別の土地にあった奴国に運ばれるはずだったという仮説も成り立つ。ともあれ、魏の前の時代の後漢の頃は、奴国はおそらく九州(倭)の大国だったんでしょうな。だが、邪馬台国の時代になると、その領土は、今の佐賀・長崎県のあたりに狭められたのではないでしょうか」 「倭の大乱と『倭人伝』に書かれた時期以後の一時期のことですね」 「ええ」  荒尾はうなずく。  言葉をつづけて、「『古事記』にしろ『日本書紀』にしろ、これは大和朝廷側からの史料ですからねえ。たとえば、昔、ぼくはある会社の社史|編纂《へんさん》をアルバイトでしたことがありますが、やっぱり都合の悪いことは外しますよ。特に会社の正当性や権威を損なう記録は、捏造《ねつぞう》はしなくても、無視したり、抹消するのが普通です。現に文部省だってやってますよ……。がしかし、当時、この博多湾一帯が紀元前から、大陸、朝鮮半島と結びついた先進文化圏であったことは否定できない事実であったから、おそらくは邪馬台国出現以前からあった旧宗国、奴の名を取って、ここを儺県《なのあがた》としたのだと思うね」 「そのとき、狗邪《くや》韓国の名が消されたというのですか、先生は……」 「ええ、大方の定説に逆らって、敢えてぼくは、そう主張しますね」     2  ——この話は、その夜泊まった博多駅北口のホテルの部屋でもつづけられた。 「……しかし、荒尾先生。もし、先生の説に従って狗邪韓国を福岡県に比定するとして、『魏志倭人伝』の問題の文�始度一海千餘里�と矛盾しないのですか」  と、桂介は質《ただ》した。「また、これが、先生のいうとおり、野々宮画伯の�マの邪馬台国�を探す鍵でもあるわけですが」  荒尾は答える。 「実はね、岩都君、これまで、おそらく、まだだれも気付かなかった、著者、陳寿の天才的レトリックの秘密がですよ、この�始めて一海を渡ること千余里�に隠されていたのです」 「といいますと?」  思わず身を乗り出す桂介。「札幌のオレンジ・ペコでいわれた、例の筆法のことですね」 「そのとおり。孫栄健氏の『邪馬台国の全解決』(註11)を読むと、この中国文献の筆法のことが説明されていますよ」  荒尾は、おもむろに煙草をくわえる。 「で、ぼくはこの本を読んで、思いがけないヒントを得たわけですがね、邪馬台国全解決のためのマスター・キイが、なんとこの短い一文に秘められていたのですな。まったく、ぼく自身驚いているくらいでありまして、気付いてみればコロンブスの卵だった……。実になんでもないことだったのです……」 「マスター・キイですか……」  うまい譬《たと》えだ。 「そうです。邪馬台国問題には、たくさんのルーム・キイがあり、これまで多くの学者、研究家がその鍵を発見してきました。邪馬台国関係の文献整理だけで一冊の本ができるくらいにね。しかし、それらの優れたものは、たしかにフロアー・キイだったかもしれないが、すべての秘密のドアをあけることのできるマスター・キイではなかったのです」 「それを荒尾さんが発見したわけですね」 「と、思います。多分……」  と、荒尾は慎重にいった。  では、どういうことか? 要約してみよう。  普通の読みかたでは、帯方郡から七千里を海路できて、金海(狗邪韓国)に至り、そこから始めて一海を渡って対馬に着く——そのようにすべての学者が読んでいたのである。(第二章1節、一、二)  しかし、ここに、実は、『魏志倭人伝』を楽々と正確に、まったく矛盾なく読み得る筆法の鍵が秘められていたのだ、と荒尾十郎は断言するのだった。 「後代の人たちは全員、『魏志倭人伝』の最初を読みまちがえたので、その先も全部まちがえたわけですな」 「聞かせてください。シャーロック・ホームズ的名推理を……」  桂介は嬉しくなった。 「『魏志倭人伝』は変数が一つや二つでない十もあるような多次元方程式ですよ。『魏志倭人伝』が含んでいるたくさんの変数を、完全に解くにはどうすればいいかを、ぼくはまず考えました。そこから発想を出発させたわけです。しかし、みんな、この大迷路の最初の入口をまちがえたので、行き止まりになり失敗したのです」 「なるほどな」  桂介は、荒尾のために灰皿を用意する。 「ルーム・キイでは一つの部屋しかあけられないわけですからね」 「そのとおり。ですが、最初さえまちがえなければ、つまりマスター・キイさえ手に入れられれば、実にスムーズに全部が解ける。らくらくと邪馬台国に行き着けるのです。自分でも不思議と思えるくらいにね。ぼくは女房にこのことを話したら、あなた、卑弥呼の霊がついてるんじゃないのって、いわれたくらいですよ」  と、荒尾は冗談も忘れない。 「たとえば?」  と、桂介は先を急《せ》く。 「筆法の元祖は孔子さんらしいですね。それで春秋の筆法という言葉があるくらいです」  と荒尾はいった。「『春秋』というのは孔子の編纂した歴史書ですが、事実を書けないこともたくさんあるわけですよ。それでわざと用字や文のルールを違《たが》える書きかたをする。文章家のプライドを以ってすれば、嘘は書けない。時の権力に阿《おもね》ることもしたくない。中国のインテリィにはそういうプライドがあったらしいね。一家を成すとはそういうことですからね。ぼくも書きにくいこと、書きたくない批評をするときなどはよくその手を使います。自分の良心には反せず、わかるものだけにわかるような書きかたをするわけです。それで、この筆法の話を読んだとき、身につまされてよくわかったわけですよ」 「しかし、ぼくはさっきから、この文を眺めていますが、なにもわかりません。ごく普通の文にしか読めないのですが」  と、桂介は持参したコピーの『倭人伝』を指す。 「ははッ、それこそが、陳寿筆法の極意というべき証拠でしょうな」  愉快そうに笑い、荒尾は言葉をつづける。 「まず、�始�の字です。なぜ、�初�と書かれていないのか。副詞的に使うのであれば、�初メニ�のほうが自然でしょ。それを陳寿は�始�と書いている。なにか隠された意味はないだろうかと気付いたのが、始まりでした」 「なるほど、普通は、�始メル�というように動詞的に使いますものね」  桂介は相槌をうった。 「�初�は時間のはじまりのこと、�始�は空間的イメージを持つ発端のはじまりだっていいますよ。ですからこの個所では、ハジメテと読むのであれば、それは時間のほうの�初�でなければならない。ではどうして希代の名文家といわれた陳寿がなぜ、�始�と書いたのか。ぼくは、陳寿がレトリックを楽しんだような気がしてなりません。文章を飯の種にしている者にはそのへんの遊びの感覚はよくわかります。つまり、彼は、わかる者にはわかる言葉の遊びをしているのですな」 「どういうことですか」  桂介は訊いた。 「�初�は、布を刀で切ることなんです、そもそもは。そして衣服を作るが故にはじめの意味になった。しかし、�始�のほうは、女が台(寝床)の上に乗る姿ですよ。女偏に台と書かれているのはそのためでして、ここより�事始め�の意味を隠し持っているのが、�始�という文字です。中国の文章博士たちはこのことは当然知っていたはずでしょ。陳寿だって、名文家の評価は得たいでしょ。そこで、こう書いた……」 「わかりません」  と、桂介はふたたびいった。「ぜんぜんわかりません」 「今いった女偏の台は、邪馬台国の台でもありますよ。ぼくが発見したこの邪馬台国という国名の決定的な解釈は、またあとでこの邪馬台国発見旅行の途中で述べますがね、とりあえず何か連想しませんか、桂介君」  柱介はしばらく考えていたが、はっと気付く。 「そうかッ! 台は邪馬台国を表し、したがって偏の女は卑弥呼を表している。つまり、陳寿は、この�始�で、邪馬台国行きの道順を自分は書いているのだということを、暗号的に教えているのですね」 「そのとおりです」  荒尾は力強くうなずく。 「そして彼は、……�だがしかし、この前の文は、狗邪韓国行きの方法だ�……と、暗示している。そういう二通りの倭へ行く道順を示していることを、読み手に、�始�で知らせたわけですか」 「と、まあ、ぼくは一応考えたわけ……」  荒尾は、にやっと笑い、「むろん冗談です……。こじつけだなってことは自分でも認めますがね。しかしね、もっと凄い仕掛がしてある。その次ですよ」 「�度一海�のことですね」  柱介は荒尾をみる。 「ええ、この�一海ヲワタル�という文、ちょっと変だと思いませんか」 「ええ、別に」  またしても謎かけされて、桂介は、首を捻った。 「�ワタル�とみんな読んでいるが、この字はどんなに目を皿にしても、やっぱり�度�ですよ。なぜ�渡る�と読めるんですか」 「異字なんじゃないですか」 「だったら、なぜ、この文につづく、対馬から壱岐に行く方法のところで、�度�を使わないんですか」  そう指摘されて、桂介はあっと驚いた。  それは次のとおりだ。 �又南渡一海千餘里、命曰|瀚海《かんかい》、至一大國�  訓読みは、�又南に一海を渡ること千余里。命《なづ》けて瀚海という。一大《いき》(壱岐)国に至る�だ。  同様に、壱岐から末廬《まつろ》へ行くところも、�又渡一海千餘里、至末盧國�  となっている。  荒尾によると、『魏志倭人伝』では、�度�を�渡�に使用する用例は他にないそうだ。 「瀚海というのは広い海という意味ですが、とにかく、対馬から先は、�度ル�じゃなく�渡ル�になっている。これをどう解釈しますか」  と、荒尾に訊かれたが、 「わかりません」  と、桂介は降参した。 「辞書ひくとね、�度�は長さ、幅員、またこれを計る道具、尺度のことですよ」  と、荒尾は教えた。「ただね、仏教の用語で、得度という。これは仏門に入って戒を受けること。済度といえば迷いの海を越えて、悟りの彼岸に渡ることをいう。つまり、当時、海を渡ることは、水杯を交わすほど危険だったのかもしれない。それで、死ににいくようなものだというので、陳寿は、わざわざ�度�の字を使った……。そういうふうにも考えられなくもないのですが」 「ああ、なるほど。大学受験の知識を思いだしましたが、中国への仏教伝来は西暦六七年でした。一説には紀元前二年といわれていますけど、陳寿がインドから渡ってきた仏教思想の影響を受けた可能性は、否定できないな」 「……でしょ。しかしね、どうもね、陳寿はそういう人じゃなかったみたいだ。彼は、蜀《しよく》の人間で、その父親は諸葛孔明《しよかつこうめい》とも関係があった。とすれば陳寿もまた孔明の思想的影響下、実利・合理主義者だったのではないか。その性格から判断すると、�度�と�渡�を区別したのにも、何か理由があるはずだ。ぼくはそう考え、これこそがわざと陳寿が行なった用字の違《たが》えではないか、そう考えまして、こう読んだのです」  ひと息いれ、「�始めて一海を度《わた》ること千余里�じゃなくて、�一海を度《はか》ることより始むれば千余里�。この二つは意味は似ているが、言わんとするところがまるでちがう。ワタルとハカルじゃ意味がちがう。つまりですね、陳寿はここで、『魏志倭人伝』の全行程を換算するキイワードを示していたのだと思う。少なくとも、一つの語に二つの意味を含ませて使った。われわれ物書きならよくやる手なんですがね、これは……。そうじゃないですか」 「そう、そうですね。一海を測定することより開始するわけですね……」  桂介は何度もうなずく。 「ここに対馬海峡の大きな地図があります」  と、鞄に入れて来た地図帳のページをめくり、「縮尺を当てて計ってみると、ほら、おそらく当時の船出地点であったはずの巨済島つまり涜慮《とくろ》国から、対馬の古代港と思われる浅茅《あそう》湾の中心までが、ちょうど七五キロでしょ。これが、実に重要な意味を持っているのです」 「千里が七五キロになるわけですか」 「ええ、一里は七五メートルという換算になる。学者さんはこれを、魏里と区別して短里と呼びますが、つまりね、陳寿はここで、『魏志倭人伝』に書かれている里は、現代の尺度の七五メートルだということが、万人に決定的にわかるように明示したのだと思うのです。むろん当時はメートル法はなかった。しかし、対馬へ渡る距離を知っていれば、簡単に換算できるわけです。だからね、�始度一海千餘里�という文節はまさに、尺度換算用の一文であった。そう考えるのが自然というものですよ。ちがいますか……」 「なるほどなあ」  思わず声を大きくする桂介であった。 「当時の魏では、前にもいったとおり、一里が約四三四メートルでした。これははっきりしています。となると魏里の千里は、四三四キロですから、ここで約五・八倍の誇張になっているね」 「しかし、どうしてそんな誇張をわざわざ陳寿はしたのですか。そのおかげで長い間、後代の学者は混乱を起こしたわけでしょう」 「もっともな疑問ですよ。たとえば、帯方郡から邪馬台国への距離は一万二千里と『倭人伝』には書いてある。このことは前にも触れましたが、これを魏里で換算するなら、実に五二〇〇キロですよ。地図をみればわかるとおり、南はジャワ島、東はハワイですよ。そこから学者は、『魏志倭人伝』の記述はでたらめだ、という先入観を抱いた。そこでね、『倭人伝』の方位はまちがっているとして、大和へ邪馬台国をもっていったりしたというわけです……。しかしね、なにしろ五二〇〇キロの遠方ですからね、大和にしようが、東北、北海道にしようが、たいして変わりはないわけでしょ。所詮はね、大和説は、少なくとも『倭人伝』暗号書解読法に関しては、牽強《けんきよう》付会の説にすぎんのですよ」  荒尾は、また煙草に火をつけた。 「しかし、九州説をとる学者さんにしても、この陳寿が示したマスター・キイのことに気がつかなかったので、やっぱり混乱したわけですよ。ですから、東南の方角を北東と読み替えたりしてね、糸島や福岡に、伊都や奴を当てはめるための無理をしている。しかし、それはどう理論づけたとしても、こじつけはこじつけにすぎないのです」 「距離を誇張した理由は?」  と、桂介は重ねて訊く。「単なる、それは、陳寿のいたずらだったんですか」 「いや、それはちがいます。孫栄健氏の本を読むとね、中国は当時、三国分立時代でね、互いに覇権を争っていたのです。孫氏によると、正確な地理情報は軍事機密だったという。敵への牽制のためでしょうかね、軍事的情報は十倍に誇張するという習慣などもあったそうです。しかし、十倍ではなく五・八倍の半端な誇張ですからね、半端でしょ。ぼくはやはり、理由は他にあると思います」 「と、いいますと?」 「たしかに、ひとつの理由としてはね、魏が南の呉に対して仕掛けたデマゴギーとしてこの距離誇張を解釈することはできます。けど、『三国志』が書かれたのは、すでに晋《しん》によって、三国分立の中国の統一がなされた後ですからね」 「じゃ、先生の説は?」 「そうね、素人の特権を行使して想像させてもらえば、陳寿に対して内命があったんじゃないか。むろん、陳寿が仕えた晋王室からですが」 「どんな?」 「倭国を遠くにすることで、晋王室の権威を高めるなんらかの理由ですよ」 「いったいどんな?」 「晋は、建前としては魏の後継王朝ですからね、魏の権威を高めることは、間接的に晋王朝の権威を高めることでもあったわけです。その魏に、東海の夷《い》族が朝見してきた。しかしそれは単なる蛮族であっては困る。蛮族なら近隣の夷人ではなく、五千キロのそれこそ地の外れから来たほうがありがた味がますというもので……」 「ああ、なるほど」  一応、うがった見かたである。 「われわれ北海道の人間が、京都なんかに行きますとね、よくこういわれます。『はるばる、遠くからきてくれはったんですか……。さぞ、お疲れでしょう』とね。しかし、こっちは別に、はるばる来たなんて思っていない。大阪まで飛んで、後はバスで、せいぜい四、五時間ですからね、今の京都は……。釧路《くしろ》へ行くより近い。しかしあちらの人にしてみれば、それではありがた味が薄いんじゃないか。こちらもそれで、話を合わせて、今でもうちの庭先に熊が出るなんて話してあげるわけですが、『倭人伝』の当時もそうだったんじゃないか」 「なるほどなあ」  桂介にも覚えがあるので、にやっと笑った。 「それからもう一つは、どうも例の秦の始皇帝に始まる東方|蓬莱《ほうらい》伝説というのが、根強くあったんじゃないかと思うのです」  と、荒尾はつづける。「『後漢書』といって『三国志』の後にかかれた文献があるわけですが、これには『倭伝』の最後にその伝説が書かれています。この、『後漢書』を書いた人、范曄《はんよう》は、当然、『三国志』の『倭人伝』も読んでいるわけですが、その不明のところを、彼なりの知識と解釈で補い、蓬莱伝説を書き加えたものにちがいありません」 「紀伊新宮に遺《のこ》る徐福伝説のことですね」 「ええ。もう一つ、ここでついでにいいますと、先の狗邪韓国の位置ですが、『後漢書倭伝』では、�倭の西北界にあり�とぼかして書いている。つまり、狗邪韓国は『後漢書倭伝』の認識では、九州からみた西北の対馬海峡全域の島々をも含むとみなしていた。後漢は三国時代の前ですからね、狗邪韓国はまだ、九州北岸には出現していなかったのでは、とも解釈できますな」  桂介は、深く相槌をうつ。     3  いずれにしても、一里七五メートルは、確定した。  この仮定換算は、多くの研究者がすでに気付いているとおり、『東夷伝』の記述でも証明できる。  すなわち、�韓は方四千里�とあるからだ。つまり、馬韓、辰韓《しんかん》、弁韓よりなる三韓は、ほぼ四角でその一辺は四千里だということである。  ぴったり地図に符合するのだ。その一辺は三〇〇キロである。計算すると、  4000里 × 75 = 300キロメートル  だから、寸分違わずぴったりなのである。(図4)   ・  ・   ・  ・  当時の地理的測量術が、極めて高度であったことがこれでもわかってくる。  つまり『倭人伝』とは、そうした正確さをもった地理書であって、決して、いいかげんなものではなかったのだ。 「そういえば、先に先生とオレンジ・ペコで話したとき、中断した件がありましたね」  と、桂介はいった。「帯方郡から狗邪韓国への距離のことですが。これは先生の狗邪韓国・福岡説では、いったい、どういうことになるのですか」 「ええ、帯方郡と狗邪韓国の距離が七千余里と書かれているところだね」  荒尾の顔には余裕があった。「一里を七五メートルで換算すれば、いくらですか」  桂介は、鞄の中に入れてきた電卓を叩く。 「七千里は、五二五キロですね」 「ちょっと地図で計ってみてください」  桂介は地図の縮尺に合わせた臨時のスケールを作る。 「合いませんねえ」  と、彼はいった。  仮にソウル西の仁川《インチヨン》港から船出して、海岸に沿い、南し東して韓国金海に来たとすると六五〇キロである。福岡までなら七〇〇キロ以上。また、魏里四三四メートルで換算するなら三〇三八キロ。ぜんぜん合わない……。 「荒尾先生はこの数量的矛盾をどう説明します?」 「学者さんは、港に何度も入港した距離も入っているのだなんて結構素人じみたことをいっているね。しかし地理書ならそんな曖昧な距離の表現法はとらないでしょう。やっぱり、寄り道説は牽強付会というほかない」  と、荒尾は断言した。  言葉をつづけ、 「ソウル西方の仁川港から福岡までを、ちょっと計ってくれませんか。直線距離でいいです……」  桂介は計った。実距離五七五キロであった。 「さっきの計算で、七千里は五二五キロだから、ちょうど五〇キロ足りませんね」  と、桂介はいった。「これは約一割の誤差になりますか」  すると、荒尾は、 「いいえ、一割の誤差どころか、陳寿の計算は、まさに正確無比でしたよ」  謎めいたことをいった。  みると、荒尾十郎は電卓を使って計算中である。やがて計算し終わった彼は、 「七千余里とひと口にいっても、帯方郡の領土と韓倭の領土、領海を通過するわけですからね、魏里(四三四メートル)と韓倭の短里(七五メートル)の二つが組み合わさっているはずなのです。それで今計算したわけですが、仮に仁川から帯方郡と韓領土の国境までの距離を、東南方向へ六〇キロとしましょう。これは史料をいろいろ調べて得た当時の境界線で、そんなにちがっていないはずです」  荒尾は、京畿道《キヨンギド》の水原《スーウオン》の東南二〇キロ付近に、当時の馬韓国境を想定していた。 「そこまでを帯方郡として、魏里に計算し直すと、こうなります」  彼は計算式をみせながら説明した。次のとおりである。  仁川〜馬韓国境距離は、  60000 ÷ 434 = 138魏里  となる。  次にこれを七千里からひいて韓倭里に換算すると、  7000 − 138 = 6862韓倭里  6862 × 75 ÷ 1000 = 515キロ  515 + 60 = 575キロ  数字をみて桂介は、またあっと驚いた。  驚くほどぴったりだったからである。 「魏の時代、いや中国の測量術は、われわれの想像いじょうのものがあったとぼくは思っています。彼らは秦の時代すでに万里の長城を築きはじめた民族です。多分、彼らの測量術は、西方から伝わってきたはずです。秦の始皇帝の血の中にはバクトリア人の血がはいってたらしいという説さえあるほどですからね。そして、バクトリアにこの技術を伝えたのは、ペルシャであり、その前はメソポタミヤであり、エジプトであったとぼくは思っています」  古代の文化技術の伝わりかたは、想像以上であったのだと荒尾は話した。しかし、歴史書は普通、政治的出来事は記すが、こうした技術については触れていない……。 「陳寿が一里を七五メートルにしたのにも、偶然ではない理由があったと思いますね」  と、荒尾十郎はつづけた。「古代ギリシャなどで使われた距離の単位をなんというか知っておりますか」 「スタディオンですね。複数はスタジア。これがギリシャの競技場スタジアムの語源になったそうですね」 「ええ、ギリシャでは一スタディオンは一八五メートルでした。ところが民族、時代によって異なり二〇〇メートルというのもある。しかし、そもそもスタディオンというのは、地平線に太陽が昇りはじめた瞬間から、完全に地平線を離れるまでの時間、二分間に、普通の大人が歩ける距離をいうわけです。ですから、体の大きい民族は距離が延びる。エジプト人は一七九メートル、バビロニア人は一八四メートルだった。しかし、倭人の場合は体が小さい。一五〇メートルは妥当な数字ですよ、現に旧陸軍の一分間の歩行距離は七五メートルと決められていたんですよ」 「つまり、二分間で一五〇メートルの計算ですね」 「ぴったりでしょう」 「でも、荒尾さんは、邪馬台国の時代に韓や倭でスタディオンが使われていたというのですか」 「とはいいません。しかし、その可能性は否定できない。紀元前のずっと昔から、ギリシャ人、エジプト人、ウル・シュメール人、セム系のバビロニア人、そしてドラヴィダ(タミル)人が日本列島にきていなかったとは、絶対にいいきれませんからね。そういえる証拠もたくさんあるが、ここでは省きましょう。本を何冊も書けるほどの史料ですからね」  と、荒尾は断り、「しかし邪馬台国問題に関係した例を一つだけあげておきましょうか」  桂介はすでに、荒尾に勧められて、国語学者の大野晋氏が著した『日本語とタミル語』という本を読んでいるだけに固唾《かたず》を飲んだ。 「たとえば阿蘇です」 「阿蘇?」 「阿蘇の語源はいろいろ説があるのですが、どうもはっきりしない。しかし、阿蘇は古くから海外にも知られていたらしい。なにしろ、世界一の大カルデラですからね」 「ええ、そうですね」  桂介はうなずく。 「この阿蘇の語源がどうもバビロニア語らしいのです」 「先生は、祖母山タミル語説をぼくに話されましたが、今度は、バビロニアですか」  桂介は目をぱちくりさせる。 「ええ、まあ聞いてください。ぼくの書棚には、『アッシリア語辞典』というのがあります。ドイツで編集し、シカゴの出版社が十年以上をかけて出しているものですがね。全部はまだ揃っていませんが、とにかくそのAの項を引くと、Asuというのがあるんです。オールド・バビロニアンとスタンダード・バビロニアンで、これがbearですよ。むろん熊のことですが、Asuは容易にAsoに変化する。u→oですからね、母音転訛でしょ」 「つまり、Asu→Asoで、阿蘇になる……」 「そうですよ、だから阿蘇は、バビロニア語の熊山を意味する」 「熊山といえば熊襲《くまそ》、熊本に通じますねえ」  桂介は首を傾げた。 「こじつけと思っているんでしょ」  と、荒尾は目を笑わせた。 「そう簡単に行くものでしょうか。偶然の一致にすぎないというか……」  話としてはおもしろいが、ちょっと首を捻る。 「じゃ、いいますがね、阿武隈《あぶくま》川を知っているでしょう」 「ええ、福島県でしたか」 「福島・宮城の両県ですよ。阿武隈山地を流れます。これは、Abu-Kumaでしょう」  と、地図切端に書いてみせる。「片仮名なら、アブ・クマ……」 「あっ、そうか」  ようやく桂介は気付く。 「Asu→Abuは、子音転訛でsがbに訛ったんじゃないでしょうか。もしそうなら、これもバビロニア語の熊でしょう。ですから、阿武隈は、�熊・隈(熊)�の意味。これは多分、この地方に、バビロニア系の言葉を話す種族と古代日本語を話す二種族が共存していたことに他ならない、とも仮定的にいえる。もしくはバイリンガルだね」  バイリンガルというのは、二ヵ国語以上を話す人たちをいう。たとえばアメリカに住むユダヤ人は、英語とユダヤ語を話すからバイリンガルである。  荒尾はつづけた。 「しかもね、せんだって、ワープロの辞書機能で知ったのですが、阿武隈の阿はクマとも読む。クマは熊、隈、阿とワープロでは三文字出てくるよ。だからまさに、阿武隈は熊・熊・熊の熊づくしの地名になるのです。しかもね、これも偶然気付き、われながら驚いたのですが、茨城の隣が栃木県でしょ。この足利に近いところに、安蘇《あそ》郡という地名がある」 「へえ、できすぎているくらいだなあ」  と、桂介は驚きを隠せない。 「平将門のころか、それ以前に、九州から北関東へ入植した人々がいたらしいですね」  とも、荒尾はいった。  関東、東北の安蘇、阿武隈の地名も九州からきたものだったのである。 「他にも、小京都の萩を流れる川に阿武川というのがありますな。これも熊川のことですよ。阿蘇族の入植先が萩だったのです」  荒尾は、弁舌さわやかにつづける。「大阪と京都の中間に高槻《たかつき》市があります。藤原|鎌足《かまたり》の墓のあるところですがね、ここには阿武山古墳がある」  缶ビールをあけながら、つづける。「……古代日本語では、魚はナでしょ。これもね、バビロニア語のnanaからきたらしいね。そういえば、『古事記』ですがね、これがなんとシュメール語で書かれているという説だってあるんですよ」(註12)  桂介としては、次から次と驚くことばかりだった。     4  翌朝、彼らは福岡を出発した。進路を西にとる。 「いよいよ実地検証というわけだね」  と、荒尾十郎は、桂介以上にはしゃいでいた。  荒尾ナビゲーターの指示にしたがい、車は今宿バイパスへ。目差すは唐津である。山手側にいい道ができている。道の右手が糸島半島であるが、全景が見えるわけではない。糸島は昔、島だったという。  途中に大塚古墳がある。前原町の伊都国資料館にも寄った。なお、この地区は、三雲遺跡などの王墓の存在が確認されている。 「三雲遺跡からは、吉野ケ里で出た有柄銅剣と同じタイプのものが出土しているそうですよ」  と、荒尾が教える。「他にも後漢鏡や管玉《くだたま》などたくさん出ている……」  しかし、彼らは、糸島=伊都説を取らないので道を急いだ。  唐津湾を望めるドライブインで休憩したが、大きな湾である。虹の松原というのが、湾曲した海岸線にある。 「神津恭介は唐津付近を末盧に比定していますね」  と、桂介がいった。「先生のご意見は?」 「唐津は遺跡が多いところですからね。有名なのは宇木汲田《うきくんでん》遺跡で、湾の奥の平野部にあります。もう一つは、唐津市の西裏手にある桜馬場遺跡でしてね、こちらのほうが新しく『倭人伝』の時代にも合うそうですよ」  いずれにしても、この唐津は、縄文期から大陸との交渉が頻繁な、先進文化地区であったことが証明されているのだそうだ。 「日本最古の水田跡も発見されているという。縄文晩期のものらしいね。後漢鏡とか朝鮮青銅器など、いろいろ出土しているこの唐津は、遺跡の宝庫といえるでしょうね」(註13) 「じゃ、ここが末盧ですね、やはり」 「大方の見解ではそうですがね、ぼくはちがうと思うな。だって、『倭人伝』の記述に景観の印象が合わないもの」  と、荒尾はいった。「つまりです、当時の水準では、一流の文化圏であったのが唐津ですよ。今でいえば横浜、神戸ですよ。ぼくは小樽生まれだけど、昔の小樽は札幌の比でないほど文化的にしゃれていました。そういうもんなんですよ、貿易港は。ですからね、ここが末盧のはずはないのです」  荒尾は改まった顔で、「ちょっと末盧のところを口語訳にして読んでくれませんか」 「わかりました。末盧には四千戸ばかりの家があって、山と海の間に沿って住んでいる。草木が繁茂していて、道を行くのに前を行く人が見えないほどだ。住民は魚やアワビを好んでとり、水の深い浅いにかかわらず潜ってとる……ですか」 「まったく、往事の景色が彷彿《ほうふつ》する情景描写ではありませんか」  と、荒尾はうなずく。「つまり彼らは、潜水|漁撈《ぎよろう》民であったわけです。いずれ、現地へ行けばはっきりするでしょうが、唐津ではなく、深く切れ込んだ伊万里湾のほうが、まさにそうした生活にはうってつけの適地だったんだと思うね」 「なるほど。先生の考古学はイメージ考古学ですねえ」 「ははッ、それはおもしろい」  荒尾は屈託なく笑い、「……でね、末盧国ですが、ひょっとすると、タミル語かもしれないとぼくは思っているのです。大野晋先生の本を読んでいてひょいっと気付いたのですが」  すなわち、日本語の溜池の意味、mas-uに相当するタミル語は、mat-uだという。意味は池、川や運河の深い場所。  また、日本語の裏・浦のraは、タミル語では内側を表すulである。  日本語を重ねると、マス・ウラ。タミル語を重ねるとマツ・ルゥになるわけだ。 「つまりね、末盧はタミル系地名で、その意味は、�運河のような深い浦�の意じゃないだろうか」  荒尾は言葉をつづけて、「これは仮説にすぎないが、紀元前十五世紀ごろすでに、タミル人(ドラヴィダ人)を下級船員として乗り込ませた、ウル・シュメール船、あるいはエジプト船がこのあたりにさかんに入港していたかもしれない」といった。 「仮説のもう一つは、歴史言語学者、川崎真治氏のものです。氏の説なら、ウル語のmagur、バビロニア語のmakur、つまり外洋帆船の寄港地が末盧です。灯台のある枕崎も同じですがね」  いずれにしても、港を意味しているのが末盧の語源なのだ。 「となりますと、この唐津は、やはり狗邪韓国ですかね、先生の説では……」 「いや、ちがいます」  と、荒尾は答えた。  二人はドライブインを出た。車をスタートさせる前に、荒尾は鞄から出した五万分一地図を出して説明した。 「ぼくはね、君がいったイメージ考古学で、末盧は伊万里湾の東側じゃないかと思っています。福島という島が湾内にあるが、まさに入り江でしょ。そして、小さな半島が突き出していて肥前町といいます。この一帯こそが末盧。『倭人伝』の記述そっくりなのは、ここしかありませんよ」 「となると、どうなります」 「倭里の百里は七・五キロですよね。ぼくは唐津が不弥《ふみ》だって思います」 「しかし、それでは、またまた通説とは読み方がちがうでしょ」  と、桂介は訊く。  普通は、放射説の場合(図2)、伊都の東百里に不弥があるとするからだ。 「理由はあとでまた説明しますがね、ぼくは、同じ放射説でも伊都起点説ではなく、末盧起点説をとっているのです。そのほうが、合理的ですよ」  と、またしても荒尾は、定説に反した新説を出した。  車をスタートさせ、東松浦半島の付け根部分を横断するコースをとった。小さな谷が入り組んだ複雑な地形である。 「窯場《かまば》が多いね」  と、荒尾がいった。 「陶器は有田だけじゃないのですね」 「一帯に陶土を産するんだね」  と、荒尾はいった。「で、思いつきましたが、不弥という国は、『倭人伝』には千余家とありますよね」 「ええ」 「他は、戸で人口を表現しているのに、なぜ不弥は家なんだろうね」 「さあ」 「一大《いき》(支)国についてのみ、三千|許《ばかり》の家があると記述している以外、全部、戸でいい表しているでしょ。変ですねえ」 「変ですねえ」  と、桂介も合わせた。 「つまりね、�有千餘家�の家は、作家とか芸術家の家じゃないでしょうか。つまり、不弥には特別の技術者の家が千軒有るということですよ、きっと」 「なるほどな」 「なにしろ唐津は、当時、弥生時代の工業都市だものね。青銅器を作ったり、土器を作ったりした特殊な技術者が、住んでいるところだったと思うね」  荒尾の説は、譬《たと》えがおもしろく説得力がある。 「だから、家なんですね。それぞれが父子相伝の技術を持って、競っていたわけですか」 「しかも彼らは韓国系の人々でした。『倭人伝』に出てくる国名は、たいていが蔑称でしょ」 「ええ、奴・狗・邪・馬とかですね」 「ところが伊都と不弥だけはいい名前がつけられている。これには意味があるはずでしょ。中国人が一目おくような。つまりですね、倭人じゃない人たちの国であったにちがいないのです」 「なるほど」  またしても桂介は説得されてしまう。 「おもしろいことに、『東夷伝』を読むと、馬韓の五十余国の中に、なんとなんと、不弥国というまったく同じ名の国があげられているんですよ」 「ああ、わかりました。こっちの不弥は、植民地だったのですね」  と、桂介は叫んだ。 「きっとそうですよ。とすれば、対岸の韓との関係から、唐津にあって不思議はないでしょ。行き来しやすいわけだから。しかし、なぜ、では陳寿は、末盧起点で不弥に至る道を書いたのか。これはですね、唐津湾は季節風の関係で、必ずしも常時、港としては適当ではなかったからですよ。それで、船はいったん、末盧に入港したのではないだろうか。このことは神津恭介も指摘しているね」 「その後、陸行百里したわけですね」  と、桂介も言葉をつづけて、「なるほどなあ、韓と倭にそれぞれ不弥があったとすると、二つの狗邪韓国が倭と韓にあったっておかしくはないですね」  車はやがて福島のみえる伊万里湾に到着した。その景観は、まさに、『倭人伝』の末盧の描写そっくりであった。     5  その日は伊万里の旅籠《はたご》に泊まった。伊万里湾の最奥部は槍のように陸に食い込み、泥の浅瀬になっていた。  町を冷やかしてみたが、見るべきものはあまりなかった。しかしかつてここからは、遠くインドを越えて、ヨーロッパに有田焼が輸出されていたのである。  夕食を済ませて、部屋にこもり、また二人は地図を広げる。 「さて、いよいよ明日は、先生、伊都国探しに出掛けるわけですが、どの方面へ向かいますか」  と、桂介は訊く。「むろん、北東でないことはわかっていますが」 「ええ、陳寿先生が東南へ行けって書いているんだから、われわれは、勝手に進路を変えちゃあいけないのです」  桂介はスケールの端を福島付近に当てて地図を計りながら、改めて気付いた。この地区一帯は池が多い。さきほどの末盧タミル語起源説にもよく当てはまる。  ともあれ、ここから伊都へ向かう五百余里は、三七・五キロメートルである。 「方角は有明海ですね」  と、桂介はいった。 「佐賀市の南西に久保田町というのがあるでしょう。明日、現地に行ってみればイメージが浮かぶと思いますけど、ぼくは、そこが、伊都だと思いますね」 「たしかに、末盧の南東五百余里は、嘉瀬《かせ》川河口付近ですけどね」  と、桂介はいった。 「現在の海岸より少し内陸なのは、当時、まだ海が北に迫っていたからですよ」 「ここが伊都ですか」  桂介は、改めて、広げられた地図に目を近付けた。  荒尾は、宿の浴衣を着け、あぐらをかいている。 「この伊都国は、『倭人伝』によれば、人口が僅か千戸。帯方郡の役人が駐留していた領事館所在地だったわけでしょ。とすれば、場所はどこにあろうと、領事館の機能を果たすのに支障がなければいい……」  と、荒尾の『倭人伝』解釈は明快である。 「ぼくは、領事館じゃなくて、貿易事務所所在地だったと思いますが」 「ふむ、そうかもしれないね。貿易事務所があったのなら、伊都は、倭国から集まる物資の集散地だね。今なら中央卸売り市場みたいなもんだ。それで、地図をにらみながら、有明海の一番奥が地理的に、その後背地を考えても、一番、便利な場所だったって思うね。なぜかというと、倭国各地から集められた貿易物資は、船に積まれて本国へ移送されたからですよ。となりますとね、役所の機構からいえば、伊都は帯方郡の下部組織でしょうが、積み荷は多分、直接、船に積まれて中国本土へ向かったんじゃないか。たとえば東シナ海、黄海を渡海して、青島、天津あたりね。あるいは、黄河を直接さかのぼり、都の洛陽とかにね。ぼくは中国旅行を何度もしているので、黄河が古代のハイウエイであったということも実感しているのです。つまり、魏の都は直接海路と黄河によって、船運でつながれていたとみるほうが、ごく自然だと思うね」  むろんそれは、単なる想像なのだ。がしかし、伊都の地名の意味に関する、荒尾の説を教えられた桂介は、一応根拠があると思った。  荒尾によると、タミル語でitai(イだイ)は、場所や時間の中央をあらわすそうだ。(註14)  これに対応する日本語はito(イト)である。暇のことであり、暇間《いとま》などという。 「ですから伊都というのは、ぴったりと、倭国の物産集荷地のイメージにあう。ちがいますか。特産品を集める足場としては、嘉瀬川の当時の河口が、もっとも適した中心地になるのです」  さらに荒尾十郎にいわせると、この嘉瀬川の近くに鹿島の地名があるが、これは鹿児島、鹿屋とおなじく、すべて海人族に因《ちな》んだ名前だという。 「水夫と書いて、カコって読むでしょ。これもね、エジプト起源語だって、前にもいった川崎真治氏が、歴史言語学の音韻研究の立場からいっておりますよ」  古代エジプトでは、水夫をクワンナといった。この言葉がインド、マレー、インドネシア経由で、韓倭に伝わり、古代高句麗語では灌奴《クワンナ》、貫那《クワンナ》と表記されたという。わが国では『万葉集』に加古《カコ》とあるのがそれだ。  彼の話は、こうしてますます、話のスケールを増していく……。  とにかく、荒尾説をとるとして、それでは、奴国と不弥国はどこか。 「放射説の話は前にしました。しかし、従来のそれは伊都が起点でした。しかしぼくは、今日、車の中でいったように末盧起点説をとるのです」  ともあれ、放射説の根拠は、『倭人伝』の表記の仕方からきているのだ。伊都までは、�東南陸行五百里到伊都國�のように、すべて方位・距離・国名の順に書かれている。ところが伊都から先は、�東南至奴國百里�あるいは、�東行至不彌國百里�のように、方位・国名・距離の順になっているのだ。ここに注目して、放射説が出されたわけである。 「投馬国も邪馬台国もこの順ですから、榎氏らは、やはり伊都起点の距離、方角としたわけです」 「なるほどなあ、細かいところを見ているのですね」  と、桂介は感心した。 「しかし、ぼくはこの説には反対なのです」  と、荒尾はいった。「それは次の理由です。『倭人伝』を精読しますとね、イタルには二種類ある。�到�と�至�です。この話も前にしたかと思いますが、変だなって思って文献を調べたら、やはり孫栄健氏がそのことに気付いていたのです。孫氏によれば、�到�は最終地に着くニュアンスだが、�至�は通過の意味だという。これには反対の意見もあって、いや同じだという中国系学者もおりますけどね」 「到はどれとどれに使われているのですか」  桂介は、『倭人伝』のコピーに視線を走らせながら訊いた。 「狗邪韓国と伊都だけですよ」 「他は�至�ですませてあるのですね」 「ええ、全部。ですから、どうも陳寿の筆法から推定するとね、狗邪韓国と伊都が旅の最終地になっている。くどいようですが繰り返すと、第一のコースの帯方発→狗邪韓国行きとね、第二のコースの帯方発→伊都行きの二本の便があったということですよ」 「札幌でもその話は伺いました」  と、桂介はいった。「つまり、東京発苫小牧行きのフェリー便で直接、倭という北海道の狗邪韓国である苫小牧へ行く方法もあれば、上野から列車で青森に着き、海峡を渡り、末盧に相当する函館からまた急行に乗って伊都という札幌に着く方法がある。そして共に終着だから到で書かれている。こういうことですね」 「それで、ぼくなりに解釈するわけですが、末盧の次に真っ先に伊都のことを書いたのは、伊都が当時の中国人にとって領事館、あるいは貿易事務所として一番重要であったからで、その先の旅程は、必ずしも伊都起点でなくてもいいのじゃないか……」  荒尾は、そう思う理由として、次の一覧表をみせた。 「�至(到)�のある場所に注目してください」 (Aグループ)  千余里至対海(馬)国  千余里至一大(支)国  千余里至末盧国  五百里到伊都国 (Bグループ)  到狗邪韓国七千余里  至奴国百里  至不弥国百里  至投馬国水行二十日  至邪馬台国水行十日陸行一月  至女王国万二千余里 「桂介君、ぼくはね、これでセットになっているような気がするのです。つまり、最初に距離があって次に�至(到)�がくるAグループは、直線型の旅程なんじゃないか。W→X→Y→Zというようにね。だが、Bグループでは、ある特定の起点からのそれぞれの行き方、距離と方角を示しているんじゃないのか。文脈からいってもです。この図をみてください(図5)。狗邪韓国の場合は、帯方郡からの特急直行便ですが、もう一つ、韓(巨済島)発の各駅停車便もあり伊都行です。が、末盧が乗り換え駅でここから奴、不弥、投馬、邪馬台国行きの各便がでているということですよ」   ・  ・   ・  ・ 「なるほどな」  桂介は膝を叩いた。 「別な譬《たと》えでいえば、交差点にある道路標識ですよ。いろんな場所へ行く距離を示している。そう思って『倭人伝』を読み直しても、別に無理じゃないのです。また、最後の至女王国万二千余里は、帯方郡から女王国に至る直行の船便ルートのことですね。しかし、この便は女王国が最終地ではないから、�到�ではなく、�至�になっている。ぼくは、帯方郡から邪馬台国経由で伊都に到る便もあって当然と思うね」  実は、この帯方郡から女王国に至る万二千余里のことは、邪馬台国問題の大きな謎とされている部分なのだ。『倭人伝』には、�自郡至女王國萬二千餘里(郡より至る女王国、万二千余里)�と記されている。 「帯方郡から女王国の何処かの港に着き、さらに伊都へ到る海のルートがあったわけですか。で、万二千余里は約九百キロの航路ですね」  桂介は、広げた地図を睨んだ。荒尾の説では、九州北部海岸は邪馬台国の領土ではない。島原半島等は奴の領土である。邪馬台国の南部は、中央山地によって隔てられた敵国狗奴国である。とすると邪馬台国に残された海岸線は有明海である。     6 「これまでの話で、どうやら、邪馬台国の輪郭線がつかめてきたような気がしますけど」  と、桂介はいった。 「ええ、九州の東南部海岸は、日向・神武王国だったんじゃないかと、ぼくは仮定します。その北東海岸には邪馬台国に服属する小国が並んでいたと思うわけですが、当時は中国がある西の世界が表玄関に向いているわけで、どうみても有明海が重要になってくるのです」 「邪馬台国人は海人族だったんですか」  と、桂介は訊いた。 「さあ、それはどうでしょうか。ぼくは、ちがうと思いますね。『後漢書倭伝』には�奴国は倭の極南界にあり�と書かれているのですが、この記述どおりなら、奴はかつて種子島、沖縄方面へも進出していた亀トーテム海人族だった可能性もある。彼らは、南方の投馬人ともその海上貿易で競争していたかもしれない。さらに、さきほどの灌奴《くわんな》(水夫《かこ》)の奴《な》が、奴国のことだとすれば、伊都駐在の魏の役人が集めた物資を運んだ水夫は、奴国人だったということにもなるね」 「次は、荒尾先生の地図では薩摩半島に比定されている投馬国ですが……」  桂介は先を急ぐ。「末盧から南へ船で二十日……。当時の船は、一日にどのくらい進んだものなんですか」 「簡単な帆船、手漕ぎの船ですから、一律にはいかなかったでしょうね。海流に乗れば速いでしょうが。しかし、ま、だいたい歩くのと同じぐらいだったみたいですね。ま、二〇キロ前後ということになりますか」 「二十日なら四〇〇キロですね。すると、やっぱり薩摩半島かな。伊万里湾を出て平戸瀬戸を通り抜け、沿岸に沿って薩摩半島に向かい、開聞岬を回って鹿児島湾の奥に入る。これでちょうど四〇〇キロになりますね」 「薩摩のツマが投馬に対応しますから、ま、それでまちがいない」 「五万余戸とありますが、大国ですね。どんな国ですか」 「よくわかりませんが、南方系の海洋民だろうね。薩摩半島へ行くと実感できますが、開聞岳というのは、古代の灯台の機能を果たしていたことがよくわかりますよ」 「薩摩半島の突端にあって、海に面している……」 「標高は九二二メートルで、平野部から直接、噴火した小さな富士山のような山ですからね、海からはすごく目立つ。沖合一二〇キロからでも眺められる好目標ですよ。(註15)古代の航海術を甘くみる人がいますが、そんなことはない。磁石がなければ無理だというのもおかしい。鳥を飛ばして陸地を知るとかね、雲の形を読むとかね、あるいは現代人にはない独特の勘を持っていたのかもしれない。いずれにしても、北九州とは別の文化圏をもっていた古代の通商航海民が投馬の人々だったと思いますよ」 「沖縄の島づたいに行けば、中国沿岸にも楽に行けたでしょうしね」 「そのとおりです。実は『桓檀古記』の中にもおもしろいことが書いてある。三世紀世界は、すでに、種子島が海上交通の要衝地だったとね。各国の船がみなここに寄港し、ここから分かれ中国北部沿岸や、朝鮮半島、そしてわが国に向かったらしい」 「それから、『倭人伝』には、持衰《じさい》というのも出てきますね」 「そうです。これは、航海の安全を占ったり、祈祷したりする独特のシャーマンです。こういう職業のことがわざわざ書いてあるのだから、倭人の航海術とその頻度はかなりのものであったことが想像されますな……」 「次は、邪馬台国の南にあって、中央山地で隔てられた国、狗奴が問題ですね」  と、桂介。「前にもお聞きしましたが復習するとどうなりますか……」 「狗奴国は、男王を立て、女王国と対立して、戦争状態にあったと『倭人伝』にある」 「そうですね」 「普通は、人吉《ひとよし》盆地を充てているが、ぼくも賛成。ここは球磨川の流域ですが、その球磨がクヌに似ている。ただしね、『後漢書倭伝』では、女王国から東に千余里海を渡ったところにあるとされているので、四国が本拠地とも考えられる。狗奴国は、九州・四国にまたがる大国だったんじゃないか。ぼくは、狗奴は古い時代に九州に移住した呉人の子孫だと考えています」  言葉をつづけて、「桂介君は、八代《やつしろ》へ行ったことありますか」 「いいえ」  八代は熊本の南、球磨川川口の都市である。 「ここにですね、河童渡来の碑というのがある。市中を流れる球磨川の辺に立っていますよ」 「へえッ、そんなのがあるんですか」 「今から千五百年ほど前に、九千匹の河童がこのあたりの海岸に上陸したというのです。旧暦五月十八日にはオレオレデーライタ祭りというのがあるそうですが、子供たちが河童の供養をしたあと、御幣《ごへい》と煎餅《せんべい》を下げた笹を持って川を泳いで渡る。このオレオレ……というのはね、呉の国からよくぞいらっしゃいましたという意味なんだそうです。つまり、古墳時代に中国南部からの移民団がきたということでしょうな、この伝説の根拠は……」 「そうですねえ」  桂介は、初めて聞く話で目を丸くした。 「『魏志倭人伝』の中で、特に邪馬台国のことが大きく取り上げられている理由も、実はこうした背景と無関係ではないのだそうです。つまり、広く中国では当時、倭人は呉の流れだと信じられておりましたからね、政策的に敵対する呉を牽制するために、わざと邪馬台国のことを誇張したのだという説もあるんですな」 「というと、邪馬台国が七万戸というのも、数の誇張ですか」 「という学者さんが多いね。しかし、一戸当たり三人とすると二一万ですか。(註16)しかし、山岳地帯では無理でしょう。イメージとしては、かなり広大な耕作に適した平野を有する国だった。そこでね、ぼくのイメージ考古学によれば、やっぱり、邪馬台国というのは、そうとう大きな領土を持った国だったはずですよ。国境線といったものは、まだないにしてもね」 「北は筑紫平野から大分にかけて。南は中央山地まで。西は有明海、東は豊予《ほうよ》海峡に臨んだ海岸までということですか」 「ええ。とすると、たとえば一里七五メートルで換算した周旋五千里の範囲内が邪馬台国であり、女王国でもあったと思います。そして、女王卑弥呼のいた場所は、この半径六〇キロの円内のどこかにちがいない」  と、荒尾は答えたが、そのとき、急に、 「あッ」  と、広げた地図を見ながら叫んだ。 「わかりましたよ。�マの邪馬台国�の意味が!」 「わかりましたか」 「ええ、ひらめきました」  と、荒尾は興奮を隠し切れぬ顔でいった。 「見てください。今、君のいった範囲には、マのついた地名がすごく多いよ」 「そうですか」  桂介は首を傾げた。 「最初の音ではなく、二番目の音です……」 「ああ、わかりました」  荒尾は、鉛筆で印をつけはじめた。     7  たとえば、市だけでも、熊本《クマモト》、玉名《タマナ》、山鹿《ヤマガ》、甘木《アマギ》である。  八女《ヤメ》、久留米《クルメ》のメはマの訛音かもしれない。現に八女については、ヤマに古代九州方言の国を意味するヒが付いてヤマヒ。これがヤマイ→ヤメに変化したという説もある。(註17) 「山国町、耶馬渓《やばけい》町もそうですかね」  と、桂介も、見付けていった。 「耶馬渓というのは、本居宣長がつけたという説もありますがね。『邪馬台国の秘密』にもそう書いてある……」  と、荒尾。「しかし、他にも、細かく見ていくと、けっこう、この範囲内には、馬《マ》のついた地名が多いですねえ」  目のいい桂介がまた幾つか探す。 「ね、桂介君、やっぱり野々宮画伯も、このことに気付いていたんじゃないか。九州の他の地区には、このマ地名は、ほとんどないといっていいくらいですよ」 「ということは、邪馬台国のマが、今日なお地名に残っていたということでしょうか」 「偶然とはいえないくらい、集中していますな」  荒尾は、深々と腕を組んで考え込んだ。  明日の予定は朝が早いので、そろそろ寝る時刻である。だが、荒尾はいっこうに寝る気配がない。 「『邪馬台国の秘密』の中にも載ってますが、白鳥庫吉博士の筑後国山門《やまと》郡説がある。今の柳川市付近ですが、ここが邪馬台国だったという。この山門《ヤマト》もマ地名だね」 「柳川市は有明海沿岸の都市ですね」  と、桂介。 「熊本県菊池郡は、昔、肥後山門郷といったそうですが、ここも邪馬台国比定地の一つ。やっぱりマ地名だな」  言葉をつづけて、「榎一雄氏の久留米説、他にも玉名説、甘木説などがあるが、全部マ地名ですよ」 「これで決まりですね」  と、桂介はいった。 「いいえ、まだ結論には至っておりませんよ」  荒尾はいった。「邪馬台国が一地点ではなく、広い領土を持った大国であることはわかったが、卑弥呼がどこにいたか——これが問題です。その場所が特定できなければ、事件は解決しませんからね」 「明日は吉野ケ里から甘木に寄った後、宇土《うと》半島へいきましょうよ。一応今のところは、ぼくらの探している九州の臍ですからね」 「ええ、その予定でいいでしょう。明日は、どこに泊まりますか」 「阿蘇にホテルを予約しています」 「温泉、結構だね」  と、荒尾はうなずいた。 「そろそろ寝《やす》みませんか」 「いや、もう少し。問題は、卑弥呼の性格です。彼女は、霊能者だったわけで、『倭人伝』には、�鬼道を事とし能く衆を惑わす�とある。この鬼道の鬼ですが、原文を見ると、字の上のノがないのです。つまり、角なしの鬼でしてね、変でしょう」  と、いって荒尾は、山尾幸久氏の著書『魏志倭人伝』(註18)巻末を開いて見せた。木版の原文が載っていた。なるほど、角がない鬼である。 「これは、カミと読むのが本当らしいですよ」  と、荒尾はいった。「……で、紀伊熊野神宮には九鬼文書なるものがあるのですが、この神代文書の読みかたは、クカミモンジョです。オニとは読まないらしい。熊野沖を流れる黒潮の存在を考えると、多分、九鬼霊術の起源は、中国江南じゃないだろうか。そして、卑弥呼の鬼道も九鬼霊術と元は同じ流れだった可能性も想像できます。実は、卑弥呼の鬼道は、五斗米道という、後漢末に江南を中心に大流行した鬼道であるとの説も出されていますよ」  この、張陵の始めた五斗米道とは、信者から五斗の米を献納させたことから付けられた名前らしい。後漢末の反体制勢力であったことから、妖術のようにもいわれているが、れっきとした原始的道教教団である。『倭人伝』の中に�衆を惑わす�という表現が使われているのは、そうした中国体制側の認識に基づくものだろう(註19)。 「しかしね、こうも考えられるのですな」  と、荒尾はつづける。「陳寿は、卑弥呼の霊術を言い表わす適当な言葉がなく、鬼道という中国道教の用語を当てはめて説明したのかもしれないでしょ」 「それはそうですね」 「陳寿は、その実態を確かめたわけではないと思いますよ」 「でしょうね」  と、桂介はうなずいた。 「この霊能の世界は、実体験がないとわかりにくい。科学的認識では説明しがたいものですから。学者さんたちのもっとも不得意な分野だろうね。しかし、現に日本には、何万人という数の卑弥呼の後継者がいて、小さな教団を作っているのは事実ですよ」 「新・新宗教といわれているものですね」 「どうも、これもイメージ考古学ですが、卑弥呼の使った霊能術の淵源は、メソポタミヤ神託秘儀の天神信仰が、南回りで直接、倭に伝わっていた可能性がある。となりますと、卑弥呼は、火神パッダ崇拝に関係してくるのですよ」  これも川崎真治氏の説である。(註20) 「すると、火山にも関係があることになりますね」  話がメソポタミヤまで広がったので、桂介の眠気がふたたび覚めた。「すると阿蘇が臭いな。先生、やっぱり阿蘇山ですよ、卑弥呼のいた宮があったのは……」 「ええ、ぼくも一応そう考えます。野々宮画伯ですが、かなりの数、阿蘇の絵を描いておりますしね」 「先生、もし阿蘇ならば、北丸安国の容疑がふたたび浮上してきますよ。彼は、熊本へ深夜のドライブをしている……」 「ええ、ぼくもそう考えていたところです。しかし、その話は後にしてください。で、『倭人伝』の記述では、卑弥呼は�夫壻《ふせい》無し�ですね。そして、男弟が一人いて、この者が実際は政務を行なっていたという。つまりです、その弟のいた都と卑弥呼のいた都は別の場所にあったはずです」  と、荒尾はつづけた。「国政を行うのに便利な場所は、有明海岸に近い場所だろうからね。ぼくの考えた伊都の位置から推して、柳川か玉名だと思うね」 「先生、その柳川と玉名の中間に、荒尾市がありますけど、荒尾じゃないのですか」  と、冗談もいう桂介。 「ははッ」  荒尾は軽く受け流して、「だが、神託を行なう聖地はもっと山の中じゃないか。これもぼくのイメージ考古学だね」 『倭人伝』は、卑弥呼の生活について、�王と為りてより以来、見《まみ》ゆる有る者少なし。婢《ひ》千人を以て自ら侍《じ》せしむ。唯男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝えて居処に出入す。宮室・楼観《ろうかん》・城柵《じようさく》、厳かに設けられ、常に人有り、兵を持ちて守衛す�と述べているのだ。 「この文のイメージは、まさに幽閉されている巫女王の生活を彷彿とさせるね。だから、山の中のはずなのです。絶対、人の多く住んでいる場所じゃない」  と、荒尾はいった。 「卑弥呼は幽閉されていたのですか」  桂介はけげんな顔をした。 「食事を摂《と》るところを人に見られると、悪霊が乗り移り死んでしまうと信じられていたらしいね」(註21) 「厳しいんだなあ」  と、溜め息をつく桂介。 「あの大国主命《おおくにぬしのみこと》が、やはりそうでしたよ。国譲りの後、彼は高い塔のような部屋に幽閉されたって『古事記』に書いてあります。とにかく、めったに人に見られてはならないのが古代の王だった。今日においても、そうした遺習が皇室に残っているでしょう。現人神《あらひとがみ》だからですよ。だから、みんなで隠してしまうわけ……。そうした古代王の光景が彷彿としているのが、『倭人伝』のこの記述なんですよ」  荒尾は言葉をつづけ、「ところで、この文の中の男子というのは、だれだと思います?」 「卑弥呼の愛人じゃないでしょうね」 「とんでもない。彼は、憑依《ひようい》状態に陥ちて神託を口走る卑弥呼の言葉を、ただ一人そばにいて、これを聞き取る役目をする者ですよ」  審神者、つまりサニワというそうだ。 「同じやり方はメソポタミヤでもしていた。ギリシャのデルフィも、そうした神託の聖地なんですがね、やはり火山性ガスを吸って神憑《かみがか》りした巫女の言葉を、神官が聞き書きして、依頼者に伝えたといいますよ。ぼくは、このデルフィへ行ったことがありますが、断崖の下にある場所でした。ま、暴君ネロに向かってお前は母親を殺すと予言をしたために、怒った彼の手で皆殺しの目に遭うのですが……」  荒尾は、そこまで話して、ちょっと口をつぐみ、 「あッ、そういえば、野々宮画伯と会食したとき、国立先生とぼくに、そのデルフィの話をしていたなあッ……」  荒尾は、真剣な面持ちである。     8 「桂介君。臍の意味がわかりかけてきましたよ。実はこのデルフィにもね、�宇宙の臍�と称する、おかしな石の大きな彫りものがあるのです」  と、荒尾がいった。  オルパロイというそうだ。 「子宮的内なる世界と外の世界をつなぐのが、臍ですからね。臍は、天の声を聞く者にとっては、天と地をつなぐ象徴的回路なんです。そら、イースター島もそうですよ。原住民はこの島を世界の臍(テ・ピト・オ・テ・ヘヌア)と呼んでいた。おそらく、古代世界ではその思想に共通するものがあったんでしょうな。とすれば、卑弥呼の居城もこの臍と関係のある地点だったんじゃないか。どうもそんな気がしますな」 「とにかく、阿蘇に着いたら、付近を探してみませんか」  と、桂介はいった。 「そうしましょう、ぜひ」  荒尾は、取材ノートの中から、野々宮画伯の描いた、あの�マの邪馬台国�のスケッチを写した写真を取り出した。千歳署の酒田刑事から借りてきたものである。 「この場所がどこかですが、われわれの捜索範囲はかなり狭まりましたね」 「後ろの小山が卑弥呼の墓でしょうか」  桂介はいった。 『倭人伝』には�大いに冢《つか》を作る。径百余歩あり。葬に徇葬《じゆんそう》せらるる者、奴婢百余人�と書かれている墳墓である。 「少なくとも、野々宮画伯は、そう考えたんだろうな。ここに、殺害された卑弥呼の遺骸が眠っている。魏王から貰った百枚の鏡と共にね」 「卑弥呼は殺されたんですか」 「多分ね。野々宮画伯も、ここで同じ運命をたどるとは思わなかっただろうね」 「しかし、卑弥呼が殺されたとは『倭人伝』には書かれておりませんが」 「いや、殺されたはずですよ。古代巫女王には自然死は許されなかったんです。フレーザーの『金枝篇』などにもその例が挙げられているが、王は、しばしば飢饉や戦争敗北の責任をとらされて殺されている。ですから卑弥呼もまたおそらくは狗奴国との戦況不利の責任を被って殺されているよ」 「こわいなあ」  と、桂介はいった。 「でね、そうした王の霊を封ずるために、墓には鏡が入れられたのだろうといいます。吉野ケ里で出た剣の意味もきっとそうですよ。それから、朱を棺の中に塗る風習も魔除けのためで、死霊を封じ込めようとしたのだろうね」 「古代日本の遺跡からは、他に類例を見ない量の鏡が出るのは、そのためだったんですか」  と、桂介はいった。 「そうですよ。『卑弥呼の鏡』(註22)という本に書かれておりますが、古代日本人の鏡好きはそうとうなもので、何百枚も大陸から輸入している。漢代には、そのために、日本向けの鏡さえ特別に作られていたっていうくらいですよ」 「別に、当時の日本人が、おしゃれ好きだったからではないのですね」 「『倭人伝』にもそのことが書かれている。�故に鄭重に汝に好物を賜うなり�とね。しかし、これは別に賜ったわけではなく、両国が盛んに貿易していたってことですよ。で、倭からは生口といわれる奴隷も連れていった。これは多分、単なる使役用の奴隷じゃないね。ひょっとすると人身供犠用の奴隷だったんじゃないか。殷墟って知ってるでしょ。あそこへ行くとね、奴隷坑というのを見せてくれますが、首だけのや、胴だけのがまとめて埋められている。これは、明らかに生贄《いけにえ》にされた奴隷ですよ。ま、そんなことだったんじゃないかって、ぼくなりに思いますな」 「昔はすごかったんですね」  桂介は肩をすくめた。 「で、魏から贈られた鏡は、多分、白銅鏡だったらしいのですが、その役目は、もう一つあったと思います。鏡に日光を反射させて、そのまぶしさを見ながら神憑りする。こういう鏡を使った呪術法は、琴の音を聴いて憑依する方法などとともに、古代には存在したんです。ですからね、魏から貰った鏡は、実用的な意味もあった……。しかも、卑弥呼はそれに魂を入れる儀式をしていたはずですよ。神聖な物だったんです。ですからね、後に秀吉がルソンの壺を諸侯に配ったようなことは、絶対しなかったと思いますね。つまり、問題の鏡は、百枚まとまって卑弥呼の墓のなかにあると、ぼくは思うね」  夜はいよいよ更けていた……。  第七章 吉野ケ里     1  朝もやの中を、車は�陶磁器の道�を進んだ。有田には寄らず県道を行き、武雄《たけお》市に出る。さらに東南へ進み伊都国を目指す。  天気が良かった。春はもう熟している。車窓の景観は、筑紫平野に変わっていた。町の屋根が一望され、緑が多い。水田、畑が広々とひろがり、この国の豊かさを示している。  前夜は遅かったので、眠気を催す。二人は交替で車を運転する。やがて久保田町に着いた。かといって、特に見るものはない。そのまま通りすぎたが、このあたりが伊都にちがいない、という確信を、荒尾十郎は持ったようである。 「ここまで来たついでに有明海を見ましょうや」  と、荒尾はいった。  道を福富《ふくどみ》町へ向ける。通り過ぎると名高い有明海の干拓地に出た。前方に大きな堤防がつづいている。干拓地を横断して堤防に着く。車を降りた。缶ジュースを持って、堤防に上る。見渡す限りの干潟《ひがた》である。灰色の泥の広がりが、陽光を照り返して光っていた。 「何ともいえん景色ですなあ」  荒尾はしきりに感心しながら、目を細める。時季外れのムツゴロウ採りが、一人、二人、泥海に出ている。  腰を降ろして、ジュースを飲みながら休憩した。 「ところで、昨夜、話し忘れましたがね、倭人の先祖は呉人だっていう伝説があるのです。これを太伯伝説といいましてね、『魏略』という本に、そのことが書いてあったというのです。というのは、すでに『魏略』そのものは存在しないのですが、他の中国文献に引用されているわけです。たとえば、唐代の『翰苑《かんえん》』の中に�その旧語を聞くに、太伯の後裔《こうえい》と自らいう�とある。太伯という人はたいそうな傑物であったわけですが、以て呉の始祖とみなされている。ところが、神武天皇こそがその太伯の子孫であるという説すら江戸時代からあるのですな」(註23)  ともあれ、中国人にとって、倭人が呉の子孫であるという考えは、『倭人伝』の頃には広く流布していたわけである。 「現に、たとえば、日本人の先祖は、中国少数民族の苗族《びようぞく》だって説もあるわけでしょ。雲南地方とわが国の習俗的な類似から見ても、この説は認めないわけにはいきませんよ。おそらく、彼らこそが倭に渡ってきた最初の移民であった。その後、朝鮮半島から続々北方系の集団が移入してくるのですが、邪馬台国の時代はどうだったのか。ぼくはね、有明海がむしろ表玄関であった時代があったと思う。ですから、昨日、話した邪馬台国の玄関は、有明海や島原湾の沿岸だったって考えます」 「帯方郡から万二千余里つまり九〇〇キロのコースを、ぼくも、今朝、地図に落としてみましたが、仁川《インチヨン》付近から南下し、東シナ海を済州島経由で横断し、天草灘から島原湾に入ってくるコースで邪馬台国候補地の一つの玉名市付近に着く。これがちょうど九〇〇キロですね」  と、桂介はいった。 「仮説どおりですね、われわれの」  と、荒尾はうなずく。 「しかも、末盧発とすると、船行十日。つまり一日二〇キロ進むとすると二〇〇キロ。その距離がやはりぴったり玉名になるのです」  すなわち、伊万里湾の福島を発って、平戸瀬戸を抜け、陸に沿って南下し、野母崎《のもざき》の鼻を回って天草灘、島原湾に来るコースが、十日の船旅になるのだ。 「外洋船ではない沿岸航行用の小さな船で、のんびりきたんだろうな」  と、荒尾はいった。 「やっぱり、先生のいう末盧基点放射説のほうが、伊都基点説よりも、合理的だということですか」  と、桂介はいった。「しかし、古代の航海が一日二〇キロ平均というのは、あてずっぽうの数字じゃないでしょうね」 「もちろんですよ。茂在寅男氏の『古代日本の航海術』(註24)の中でも、検討済みの妥当な数字ですよ」  と、荒尾は答えた。「ぼくにいわせると、ですから伊都を糸島に置くのは、どう考えても合理的じゃない。方角の無視のみならず距離的にも辻褄が合わなくなると、考えたのが最初の発想でしたよ」 「先生の目差すのは、あくまで『魏志倭人伝』を正確な地理書と考え、忠実に解読するというのが前提ですものね。たしかに、末盧を基点にすると、距離の問題が方角とともに整合的に解けますね」 「ええ。その整合的という言葉……まったくそのとおりなんですよ。昨夜も話したとおり、邪馬台国を、筑紫平野を含む九州中央の広い地域に置くことによって、あらゆるものが矛盾なく説明できる。ま、そこがミソですがね」  と、荒尾はいった。 「しかし、『倭人伝』には�水行十日陸行一月�とありますが」  と、桂介は訊く。「これには二通りの読みかたがありますが、先生はどちらをとりますか」 「ええ。船で十日、そしてさらに歩いて一月と直線的に考える読み方が一つ。もう一つは、志田不動麿氏の説(註25)で、平行的に読む方法がある」  と、荒尾は答えた。「ま、九州説をとる者にとって、この陸行一月が一番厄介な点なんですな。なぜなら、北海道と比べて九州は狭い。一月も旅したら、徒歩でも一周できますからね。それで、一月は一日の誤記だという説もでているくらいですよ」 「先生はどう解釈されるのですか。一月は一日の誤りとする説をとるのですか」  と、桂介は訊く。  すると、荒尾は、自信満々の顔をして、 「いや、そうした読み替えは、ぼくの主義に反しますよ」 「かといって、先生は大和説でもない。陸行一月は大和説にとって有利な点ですが、どう説明されるのか、大いに興味がありますねえ……」 「今までの話で、すでに答えは出ているがわかりませんか」 「ぜんぜん」 「じゃ、ぼくの解答は後の楽しみに回して、吉野ケ里に着いたら教えますよ」  そういって、立ち上がり、尻のごみを払った。     2  彼らは出発した。邪馬台国候補地の一つ、柳川市へ向かい、地形などを見ながら、今度は北へ向かう。  昼過ぎ、彼らは、吉野ケ里丘陵に到着した。  とにかく大変な人気だというが、休日ではないのでわりと空いていた。なんとか臨時の駐車場に車を潜り込ませて彼らは下車。遺跡は、佐賀県|神埼《かんざき》町と三田川町にまたがっている。  最初に、墳丘墓のほうを見にいった。桂介が新聞記者なので、ロープの中に入ることができた。小高い丘で、北のほうに山沿いに走る九州横断道の構造物が一直線に走っていた。  なるほど、防衛集落だということがわかる。丘陵の高台で守り易い地形だ。濠も発掘されていた。 「しかし、排水の意味もあったんじゃないか」  と、荒尾はつぶやいた。  案内してくれた係員の説明によると、濠には外濠と内濠があり、外濠はV字形断面。幅六〜八メートル、深さが三〜四メートルもある大規模なものだ。現在約一キロの発掘がすんでいる。その外濠に囲まれた地区は、面積が二五ヘクタールと推定されるというから凄い。内濠は一重ではなく、南北一六〇メートル、東西八〇メートルの土地を囲んでいるそうだ。  彼らは、発掘の続けられている直径四〇メートルもの墳丘墓を後にして、奈良時代の道というのを見に行った。その一部が遺されているのだ。この道は九州横断自動車道にほぼ平行して、九州を横一線に横切っていたらしい。 「昔も今も同じということですな」  と、荒尾はいった。「奈良時代と同様、邪馬台国の時代にもここには横断路があったんじゃないか」 「この前いっておられた、邪馬台国属国の仮説が証明されましたか……」  と桂介。 「現地をみて、ますます確信を強めましたよ」  荒尾は答えた。 「じゃ、ここが先生のいう烏奴《あな》国ですね」 「と、思います」  傍らにはこんもりした森があり、日吉宮という小さな社《やしろ》が祀られていた。 「この森が卑弥呼の墓にちがいないという人が、せんだってのテレビに出てましたね」  と、桂介はいった。 「ま、テレビ局は、何がなんでもここを邪馬台国にしたがっているらしいね。とにかく、二月二十三日以来、新聞記事を切り抜いていますが、おびただしい量ですよ。とても整理しきれない。が、ここが、邪馬台国の時代以前から、小さなクニであったことはまちがいないね」  荒尾は、写真を撮るのに余念がない。 「ところで、さっきの質問ですが、陸行一月の……」  と桂介が催促する。「教えてくださいよ」 「ええ。ここに来て、改めて自説を確認させてもらったが、ぼくはね、陸行一月というのは、末盧からこのような古道を通って、邪馬台国へ行った日数だと思います」  と、荒尾は、麦畑を前にした土手に腰を降ろした。 「つまりね、帯方郡の役人が、邪馬台国に服属する小国を一つずつ巡察して行ったんじゃないか。ま、奴国を入れると二十一ヵ国あったわけですが、一ヵ所に一晩ずつ泊まっても二十一泊するわけでしょ」 「ああ、なるほど。陸行一月は巡察使の日程だったんですか」 「でね、ぼくは、この西から東へ九州を横断する巡察コースは、別府あたりから南下し、阿蘇を抜け、有明海に出たのだと思う。最終地はむろん卑弥呼の男弟が政務している邪馬台国の府であった。これで、日程に一月を要するということですよ」 「邪馬台国の都まで来れば、伊都もすぐそばですものね」  と、桂介もいった。 「納得してくれましたか」 「百パーセント納得です」  たしかにこれが、もっとも、すっきりした読みかたではないだろうか。 「いかがですか、イメージ考古学の威力は……」  と、いって荒尾は片目をつむる。  道をとって返し、住居跡のほうへ行く。内濠の中の敷地に、柱の穴がたくさん見える。楼観跡というのもあった。物見|櫓《やぐら》で、濠の突出部にある。竪穴住居群の跡もあり、かつてここに住んでいた弥生時代の人々の生活が彷彿とされる。濠の外には高床倉庫の跡もあり、豊かさが偲ばれる。 「古代はロマンだなあ」  と、荒尾はご機嫌である。  見学の最後は、プレハブで作った急造の遺物展示室である。  大きな甕棺《かめかん》も展示されていた。素焼きの壺はかなり作りが稚拙であった。  写真を撮り終わった桂介は、それを見てじっと考え込んでいる荒尾に気付いた。  近付いて、 「どうしました?」  と、訊ねると、 「いやね、この甕を見ていたら、邪馬台国の国名の意味が解けてしまいましたよ」  と、荒尾は冗談っぽくいった。  狭い部屋が混んでいるので外に出る。駐車場に引き返す。 「『倭人伝』の原文では、邪馬台国の台が壱になっていることはご存じでしょうね」  と、荒尾は訊いた。 「ええ。そのことが長い間論争の種になっているそうですね」  壱の本字は壹である。台の本字は臺である。この二つが、よく似ているところから、原文のほうがまちがっていると、後代の書では直されているわけである。なお、台を使っているのは、宋本『太平御覧』に引用されている『魏志』、『後漢書』、『梁書』、『隋書』等であるが、専門的になるので詳細は省く。とにかく、それが人口に膾炙《かいしや》して、邪馬壱国よりも邪馬台国のほうが有名になったのだ。  荒尾はいった。 「邪馬台国の邪馬が、竜神であることはまちがいない。ヤマは怖いものという意味でもありますから、鬼という意味にも使われている。鬼ヤンマ知ってるでしょ」 「トンボの?」 「ええ。鬼ヤンマのヤンマも実は鬼(怖いもの)なのです」 「なるほどな」  桂介は車を出し、東|脊振《せぶり》のインターチェンジに向かわせた。 「詳細は川崎真治氏の著書に譲りますが、『倭人伝』の中の邪馬国も竜の国という意味ですよ」(註26)  また、『韓伝』弁辰の条の弥烏邪馬《みあくやま》国も同じである。 「で、この吉野ケ里をぼくは、烏奴国としましたが、これをアナと読まずに、ウナと読めばやっぱり竜の国になるのです」  川崎氏によれば、柱に巻き付く竜のウ・ラガの訛りだそうだ。  荒尾はつづける。 「ぼくの出版社の担当者に、宇山さんというかたがいるのですが、このウ・ヤマさんも竜姓だと思いますよ。多分、四、五世紀のころ弁辰韓国から日本に渡来してきて貴族になった帰化人が、ご先祖様なんじゃないでしょうか。他にも日本人の姓や地名には竜にちなんだ名が多いのです。なんたって、東の国ですからね。古代中国人は、東に青と竜を当てていた。そういえば、北をなんというかご存じ?」 「玄武ですか」  桂介は、車を高速車線に入れる。初めての九州横断自動車道は、快適であった。 「ええ。北は黒・亀ですよ。だから、玄界灘っていう」  と、荒尾はいった。「つまりですね、九州の北にあるから玄界灘です。仮に韓国側からみれば、南・朱雀で、紅海だね」  荒尾はつづけて、「多分このことと倭国北岸は無関係ではない」といった。  車は、鳥栖《とす》を過ぎる。甘木《あまぎ》ICで降りる。目についたドライブインに入り、休憩した。 「さて、さっきのつづき……」  と、荒尾がいった。「邪馬台国の邪馬が竜だってことは決定的ですが、台の意味が問題なんです。さっきもいいましたが、『倭人伝』の原文では壹なんですよ。それで中には邪馬一国とさえ表記する人がいるくらいですよ」 「どうして後代の歴史家が、臺に書き替えたんですか」 「そこが、邪馬台国問題の大きな謎でもあるわけです」  まったく、解釈は様々であり、壹説と臺説とが拮抗《きつこう》しているのだ。  荒尾はつづける。 「でね、漢和辞典を引くとわかりますが、この壹の意味は、元はといえば、壺の中に吉という字が入って作られている。吉は音を表すと同時に善いことも意味しているらしい。そこから、壹の本義は、壺の中に善いことを詰めるということで、善を�もっぱら�の意味だという。がしかし、別解もありまして、壺に善いものを詰めるから善を�ひとまとめにする�という意味だともいうのです」 「単に、一、二、三の数じゃないんですね」  と、桂介はいった。 「ええ」  荒尾はうなずき、「ですから、竜トーテム族をひとまとめにした国と、邪馬台国の意味を理解することもできるわけ」  言葉をつづけて、「ところが、一方、臺ですが、この字は次のように分解される。まず上の�士�は行くことの意。真ん中は�高�のことだそうです。下の�至�は土台が固定していることを表している。この三つが組み合わさり、臺は四方が見えるように築かれた物見台をいう」 「なるほどなあ」  桂介は感嘆した。「じゃ、まさにそっくり、阿蘇山の姿じゃないですか」 「でしょう。だから、邪馬台国とは、川崎氏も述べていますが、どうも竜台のことらしい。竜を祀るジグラットのことなんですよ。実はぼくはさっき、死者を入れる大きな壺の形をした、あの甕棺を眺めているうちに、そう思いついたわけで。最初は陳寿は、倭の竜神信仰族を壹にまとめる国という意味で邪馬壹国と表記したのだと思うね。ところが時代が下ると、当時の歴史家はすでに、この国が阿蘇山にあったことを知っていたのだと思う。それで、壹→臺に書き替えてしまった。富士山が日本の象徴と同じことで、阿蘇山は邪馬台国そのものだったんでしょうな、きっと」 「いよいよ阿蘇で決まりましたね」  と、桂介もいった。  ドライブインで教わった道を進み、やがて、目的の大神《おおみわ》神社に着く。祭神は大己貴命《おおなむちのみこと》である。ここが、倭の大三輪《おおみわ》神社である。  荒尾の説では支惟《きい》国である。だが、『邪馬台国の秘密』にも書かれているが、巴利《はり》国説もある。あたりは丘陵状の尾根にはさまれた小石原川沿いの平地で、水田になっていた。  境内に入る。小さな社だ。参拝し、パンフレットを貰った。その中には、安本美典氏の著作から採った地図が載っていた。(註27)  それによると、不思議なことに、甘木と大和の地名には、偶然とは決して思えない、地名の著しい相似がみられるのだ。 「名がそっくりなだけではなく、配置までそっくりですね」  と、桂介は目を見張った。詳細は省くが、とにかく一読に値するものだ。 「不思議だなあ」 「不思議ですよね。というわけで、安本氏の甘木・邪馬台国説は有力なのです」  言葉をつづけて、「近くに夜須町というのもありますからね、甘木とつづけて、この付近が『古事記』の天の夜須原じゃないかともいうわけです」  やがて、車を甘木市内に戻す。  助手席の荒尾は五万分一地図を膝に広げ、 「小石原川は筑紫川に合流し、その向こうが久留米です。こうして見ると南は筑紫川、西と北東を山に囲まれた三角の平野は、たしかに大和を思わせる地形だね」  言葉をつづけて、「うん、やっぱり、ここに住んでいた連中が、大和へ移住したのかもしれないな。このあたりの地名をそっくり大和へ持っていって付けた連中がいたにちがいない。札幌もそうだもの。札幌は京都地名が多いでしょ」 「神武集団ですか」  と、桂介はいった。 「さあ、それはどうだろう。神武東征の前じゃないだろうか。神武は『記紀』によると、大阪付近の難波で、長髄彦《ながすねひこ》の反撃に遭う。それで止むをえずコースを南下させて、紀国から、多分、吉野川をさかのぼって大和へ入るのです」 「あッそうか。荒尾先生が甘木を支惟《きい》国にした理由がわかりましたよ。支惟は紀伊のことだったんですね」 「ははッ、空想考古学のそしりを免れませんが、かつて甘木にいたのは、邇藝速日命《にぎはやひのみこと》の一族だったんじゃないでしょうか。彼らが先に紀伊や大和に移動し植民していたんですよ。この命《みこと》は、神武が来たとき平和的に降伏するのですが、そのとき言葉だって通じたはずで、神武とは同系統の一族だった……」  ——桂介は、車をインターチェンジに戻し、鳥栖経由で、九州自動車道を南下した。  途中、八女、玉名などの候補地も取材する。  荒尾は、走行時間を丹念に計る。  宇土にも立ち寄る。かつてここは、亀トーテム海人族の土地であった。しかし、野々宮画伯の描いた�マの邪馬台国�はない。     3  その夜、かなり遅い時刻、彼らは阿蘇の観光ホテルに着いた。洋食の夕食をそそくさと済ませ彼らは、風呂に入り一日の疲れを癒《いや》す。旅先での温泉は、くつろげるのがいい。  山の中であるから、外は真っ暗だった。部屋でビールを飲みながら、ふたたび、彼らは話し始める。 「……なにしろ三万年前の旧石器が出土するほど、阿蘇の歴史は古いわけです。近年、ウィーン大学が阿蘇研究をしているという話を聞いたことがありますが、倭の国の阿蘇は古い時代から外国に知られていたらしい」  と、荒尾が語る。「なにしろ、世界有数の外輪山を持っている大火山でありますからね」  北に阿蘇谷、南は南郷谷である。その大火口原に、たくさんの町村があるのが阿蘇だ。 「太古にあっては、八千メートルの巨大火山だったそうですね」  と、桂介もいった。 「阿蘇国には古墳も多いのです。先史遺跡、弥生遺跡もたくさんありますよ」  たとえば、下山西遺跡、谷頭遺跡、中通古墳群、石井入口遺跡、中山遺跡、陣内遺跡、六ノ小石遺跡、二俵筒横穴群など、非常に豊富である。 「邪馬台国を論ずるのに、なぜ、この大阿蘇が等閑視されたのか、むしろ不思議という他ないね。古代文化と火山は、密接な関係にあるのだから。七世紀の『隋書倭国伝』には、この山のことがはっきり書かれていますよ」  と、荒尾はつづける。  すなわち、�阿蘇山有り。その石、故なくして火起こり、天に接する者、俗以って異となし、因って祷祭をおこなう�——である。 「大噴火する阿蘇は、古代人にとっては畏怖の対象であったわけです。そこより信仰も生まれた。阿蘇には竜神信仰が昔からあった……」  すなわち数々の健磐龍命《たけいわたつのみこと》伝承がそれだ。 「五世紀の後半から六世紀にかけては、阿蘇君が天皇家と密接な関係にあったといいます。その一族が舎人《とねり》として天皇家に仕えていたらしいね」  阿蘇・邪馬台国仮説に立てば、三世紀においては九州に覇を唱えた強国邪馬台国も、大和朝廷がその全国統一の基盤を固めた四〜六世紀には、大和すなわち大倭《おおやまと》に服属したことになる。 「古くは四世紀末、五世紀後半にかけて、この阿蘇系凝灰岩の石棺が船に載せられ、盛んに四国、山陽、大和、紀伊方面の豪族たちの柩《ひつぎ》として輸出されていたそうですよ」  その一部は大分からであるが、多くは有明海から瀬戸内海に大迂回して海上輸送されたというのだ。(註28) 「それから、阿蘇では丹《たん》つまりベンガラも採れ、重要な交易品でした。阿蘇町下山西遺跡北方の水田原野の下には大量の阿蘇黄土が埋まっているそうです。これは酸化第二鉄のことですが、これを焼くと簡単にベンガラができる。昔、阿蘇の火口原は巨大な湖水でしたからね、熔岩の鉄分が溶解し、分離して沈澱したものらしい。ところが、『魏志倭人伝』には、�その山に丹あり�とある。卑弥呼の献上品の中にも丹が含まれていたが、それはおそらくは阿蘇のベンガラだったんじゃないか、と推定することができる。現に、阿蘇の石室、石棺遺跡からは、かならず大量のベンガラがでることからもわかるとおり、古くから魔除けとして使われ、かつまた貴重な交易品で外資を稼いでいたんですよ」(註29)  桂介は『倭人伝』のコピーに目を走らせて探した。たしかに�出眞珠青玉其山有丹�との記事があった。(註、第二章1節、十四)  他にも、�朱丹を以て其の身体を塗ること中国の粉を用うるが如きなり�とも『倭人伝』には書かれているのだ。 「�その山に丹あり�に相当する山は、この九州では阿蘇以外には考えられませんものね」  と、桂介はいった。「つまり、祖母山の青銅原料と阿蘇谷の丹を独占することによって、邪馬台国は栄えたわけですね」  桂介はつづける。「この二つは、古代社会においては、現代社会の石油資源のようなものだったのでしょうね……」 「多分ね、そうだったと、ぼくのイメージ考古学は教えますな」  と、荒尾はうなずく。「邪馬台国は二、三世紀の倭の一大工業国だったんじゃないか」 「単なる半農半漁の大国ではなかったのですね」 「そういう鉱工業技術を持っていたのが、邪馬台人だったんじゃないか。となるとね、当然、戦争だって強くなるよ。邪馬台国は、倭の軍事大国だからね」  言葉をつづけて、「で、桂介君、また神武集団の話になりますが、彼らは日向にいたわけでしょ。で、東征に旅立ったわけだが、そのときどんな武器を持っていったのかと想像すれば、邪馬台国産の最新武器だったんじゃないのか。いい武器がなければ、戦争には勝てないからね。ぼくは、優れた戦略家であった神武は、邪馬台国とも手を結んでいたんじゃないかと想像するね。その証拠が、高千穂ですよ。明日、高千穂峡へ真っ先に行ってみましょう。天岩戸神社というのがあるんです」 「いいですね。神話の旅ですねえ。もっとも古いタイプの岩根信仰が、天照大神の籠られた天の岩戸ですね」 「そうなんですが、天の岩戸からは、祖母山も近いですよ。そして、ぼくのイメージ考古学は、この岩の裂け目信仰に、古代鉱業の面影を見るのです」 「あり得ますね」  桂介は、手を拍《う》ちながら、うなずいた。     4  翌二十三日朝、阿蘇山腹、湯ノ谷のホテルを出る。  車は、観光道路を山頂へ登る。里は完全な春だが、山には雪が残っていた。景観は雄大そのものである。森林はなく、山腹の一面は草原である。今日の阿蘇は、放牧場になっているのだ。しかし、昔は、鬱蒼とした森林であったことがわかっている。邪馬台国の時代もそうであったろう。『倭人伝』には、�其の木には……�と多くの照葉樹木の名をあげているが、阿蘇の樹相はそうしたものだったにちがいない。  阿蘇は活動中である。山頂はガスを噴き出していた。桂介は、手塚治虫氏の映画『火の鳥』のシーンを思い浮かべる。  草千里、砂千里ケ浜などを見学して、南郷谷に降る。  広い火口原に、町や村がつづいている。南側は屏風《びようぶ》のように、阿蘇外輪山のあらあらしい断崖がつづいている。  高森峠を越え、狭い国道を高千穂峡へ下る途中、山膚《やまはだ》が激しく浸食された祖母山を真近くみて、写真を撮る。  昼ごろ、高千穂に着く。延岡からの鉄道がここまで届いている。峡谷の茶店で、名物の流しそうめんの昼食をとる。  それから、引き返して、天岩戸神社へ向かった。  神社は広い谷の奥にある。拝殿の裏側へ神主に案内されて入る。鬱蒼と樹木の繁茂した岩戸川の峡谷をはさんだ正面の崖に大きな岩の裂け目がある。これがご神体である。割れ目が神格化されているのだ。同じ形式のものは、大隅半島の吾平《あいら》山上陵である。  参詣を終わり、車に戻る。 「これからどこへ行きますか」  桂介は訊く。  まだ、�マの邪馬台国�は見付かっていない……。 「そうですね、五ケ瀬町を通り、南郷谷経由で熊本に戻りますか」  と、荒尾はいった。  戻り道の国道二一八号は立派であった。江戸時代から、九州縦断路として、このコースが使われていたらしく、その宿場町が馬見原《まみはら》である。もっとも栄えた宝永年間(一七〇四〜一一)には、造り酒屋が十三軒もあり、明治の中頃まで三層楼の白亜の豪商の邸があったと伝えられる。  道は眺めがよい。ふたたび祖母山を遠望した。峠を越えて下る。やがて馬見原の十字路に出る。地図には蘇陽《そよう》町とあるところだ。  十字路を右へ行けば阿蘇。左なら有名な椎葉《しいば》村である。  だが桂介は、その道をうっかりして、直進してしまった。矢部町経由で宇土市へ行く道だ。すぐ気付き、引き返そうとしたとき、日石のガソリン・スタンドが目に入った。ちょうど給油のころあいなので、そのまま車を走らせ、道の右手にあるスタンドに入れた。  スタンド員が出てくる。 「満タンにしてください」  と、桂介は頼む。 「君、ここが馬見原ですね」  と、荒尾が若いスタンド員に訊く。 「ええ、そうですが、町は山手のほうにある家のたくさんあるところがそうですよ」 「ちょっと……」  荒尾は車を降りて、桂介に手招きした。 「なんですか」 「いいからちょっと降りて」  荒尾は道を徒歩で少し引き返す。桂介はついていく。 「あれを見て」 「なんですか」  抽象彫刻とも思えるものが道端に立っていた。傍らは公民館である。二人は車道を渡って近付く。台座に支えられた天辺に大きな御影石の球が置かれていた。 「これが問題の臍《へそ》ですよ」 「あッ、ほんとうだ。宇土半島じゃなかったんですね」  桂介は思わず驚きの声をあげる。  たしかに臍であった。傍らの黒御影の碑板に、�九州のへその基石�と彫られているのだ。 「これだったんですね」  と、桂介はいった。「野々宮画伯のメモにあったのは……」  説明板によると、馬見原は分水嶺で、ここから日向灘と八代海に、五ケ瀬川と緑川が東西に流れるとある。 「君が、道をまちがえたのが幸運でした。ひょいっと見ると、こいつが道端にあるじゃありませんか」  と、荒尾も興奮しているのだった。 「そら、後ろを見て。スケッチそっくりの景色でしょ」 「まったくです」  こんもりした小山の天辺に、大きな樹がそびえている。これが、邪馬台国の女王卑弥呼の墓なのだろうか。しかし、確かめる術《すべ》はない……。 「ここが、野々宮画伯の考えた�マの邪馬台国�だったんですな。ここはまさにマ地名ですよ」  馬見原は、位置的には交通の要衝だが、山の中の村である。 「しかし、どうしてこんな場所が……」  桂介は首を捻った。「卑弥呼の宮なんですか」  言葉をつづけて、「なぜそう考えたんですか」 「ええ、たしかにね。しかし、そういわれてみれば、なるほどと納得できますよ」 「といいますと?」 「実はこの馬見原は、あまり人には知られていませんが、神話の里であり、また、馬見原・邪馬台国説もないわけじゃないからですよ」(註、本書後書き参照)  と、荒尾は教えた。  馬見原は古代の神都であったという。日本の始祖、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》がみそぎをしたと伝えられる�明神の本《もと》�なるものがあり、この岩清水を使って、酒造りが栄えたらしい。 「神事には欠かせぬ神酒のとれる土地でもあったのですね」  と、桂介はいった。 「他にも、大国主命の足跡と伝えられる明徳山があります。さらに、南へ行ったところには、高天原の乱にちなんだ千人塚というのもあるそうです」  これは、神功皇后に関する、正史にはない伝説らしい。 「さらに、天の岩戸とともに、ここから一キロほど東へ行くと、天照大神の誕生地といわれる鏡山があります」  二人は、ガソリン・スタンドに戻り、もしやと思い、スタンド員をつかまえて質問した。  すると、 「ええ、覚えておりますよ」  主任らしい男も若い店員も野々宮画伯のことをはっきり記憶しているではないか。 「来たのは、去年の暮れですね」  と、桂介が念をおすと、 「そうですよ。あの絵描きさんは、この下の幣立《へいたて》神社の駐車場に車を停めて、一晩、キャンプしたのですが、ここでトイレを借り、ポリタンクに水を汲んだとき話をしたんですよ。ああ、それから、電話もね、そのとき掛けましたよ」 「はっきりした日付はわかりませんか。非常に重要なことなんですが」  荒尾は訊ねる。 「ええ、わかると思います。あれはたしか、娘の誕生日でした」  といいながら、ガソリン・スタンドの主任は、親切に業務日誌を調べてくれた。「まちがいありません。十二月二十七日午後おそくですね、ここに来たのは。で、わたしは、夕方、交替で、矢部にある家に帰宅するときにね、駐車場の前を通りかかったので、ちょっと立ち寄りました。そのとき話したんですが、東京から来られた絵描きさんという話でしたよ。わたしは、車にあがり込んでね、コーヒーをよばれたんですよ。実は、わたしも、あんなキャンピング・カーを持ちたいと思っていたので、中を見せて貰ったわけで……。いろいろ便利にできているので、感心しました」  野々宮画伯は、二十六日に京都を出発しているのだ。山陽自動車道、九州自動車道を走って、この馬見原に着いたものにちがいない。 「他にはなにか?」 「ええ、正月をここで過ごすので、給油を頼む代わりに、トイレとか電話のときはよろしくと頼まれてね、わたしは、『ええ、どうぞ』といったんでした。しかし、翌朝はもういませんでしたな。早番だったんで、朝の六時にはあそこを通ったんですがねえ」 「で、それっきりに?」 「ええ。その後は、このあたりでは見掛けませんねえ」 「その人は野々宮太郎という画家なんですが、だれか、訪ねてきませんでした?」 「いいえ」 「そうですか……」 「ああ、そういえば、いなくなった二十八日の昼過ぎ、年輩の女の人が、高千穂町のタクシーで来て、キャンピング・カーのことを訊ねましたよ。絵描きさんはどこにいるだろうかって」 「幾つぐらいでした?」 「六十ぐらいだったと思います」 「それで?」 「昨日の夜は、幣立《へいたて》神社の駐車場にいましたが、今朝早く、もういなかった、と教えましたよ。そうすると、その女の人は、ここの電話でどこかに連絡したのですが、相手が不在らしくって、すぐ出ていきましたね」  約三ヵ月前の出来事を、ガソリン・スタンドの店員がよく記憶していたのは、その女性がまるで死人のように青ざめていて、様子が正常ではなかったためらしい。  桂介は電話を借りて、千歳署へ連絡した。酒田刑事は松阪に出張中で不在であったが、代わりに課長が電話にでる。桂介は、一部始終を話す。課長は、こちらの話を確実なものと信じたらしく、 「で、そこは何県ですか」  桂介は、スタンド員に向かって、 「ここは何県です?」  と、訊く。 「熊本です」  馬見原は、宮崎県と熊本県の県境らしい。  桂介がその旨を伝えると、千歳署の課長は、 「すぐ、熊本県警に連絡します」と伝えた。  しばらくすると、熊本県警からガソリン・スタンドに電話が入った。  ふたたび事情を話す。 「わかりました。すぐ、パトカーをやります」  と、相手はいった。  まもなく、パトカーが来る。彼らは、殺人事件の事情を知ったガソリン・スタンドの主任も同乗して、幣立神社の駐車場に向かった。駐車場は、崖の下にあり、舗装はしていない。馬見原から三キロばかり西に下がった国道端である。 「停まっていたのはこの辺りですよ」  と、ガソリン・スタンドの主任が教える。  警察官はすぐに、ロープを張った。  県警の刑事が来るまでかなりかかりそうである。主任になにか訊ねていた荒尾が、振り向いて桂介を誘った。 「この上です」  傍らの急な神社の石段を登ると、日の宮幣立神社があった。 「こんなところにあるとは知らなかった」  と、荒尾はつぶやいた。「しかし、柞木田《たらきだ》龍善氏の著作で、ぼくはこの神社のことを知っていたのです。一度、ぜひ訪ねたいと思っていたのですが、こんな形で来るとは思わなかった」(註30)  境内の表示があった。祭神は、神漏岐命《かむろぎのみこと》、天照大神など五柱である。併記の郷社大野神社の祭神は、阿蘇の守り神、健磐龍命《たけいわたつのみこと》であった。 「実はです、君が信ずる信じないは別として、ここはユダヤの秘宝、水の玉と称するものと、モーゼの神面があるのです」  と、荒尾は教えた。  二人は無人の社殿に参拝し、置かれていたパンフレットを戴く。それにも載っていたが、五色面《ごしきめん》というものが、ここの神宝の一つにあり、これは超古代五人種の、黄色の中国人、緑のインド人、白のヨーロッパ人、黒のアフリカ人、赤のユダヤ人(モーゼ)をあらわしているものである。 「この五色人のことは、かの『竹内文書』にも書かれているよ」  荒尾は教えた。 「ちょっと信じられませんが、この地にユダヤ人が来ていたという言い伝えがあるんですねえ」 「そら、四国の剣山にソロモン王の秘宝があるって話もあるでしょ。ですからここにユダヤ渡来伝説があったって、何も驚くにはあたらない」  荒尾は、屈託なく笑いながらいった。  この丘は、白保古峰《しらほこみね》というらしい。樹齢数百年という老杉が鬱蒼としている。神殿脇の天神木と名付けられた巨杉は、高さ五十メートル。太古、ここに隕石が落下し、その跡に生えたものだそうだ。 「柞木田氏の本によると、この森が神代時代の伊勢神宮だったそうです。事実、五万分一地図には伊勢の地名がありますよ」  と、荒尾はいいながら、阿蘇外輪山の上の道を歩きはじめる。 「この先に、景行天皇の高屋宮跡があるはずです」  熊襲《くまそ》征討の際に滞在したところらしい。  尾根筋の途中に、阿蘇五岳展望台があった。素晴しい眺望だ。阿蘇が真正面にあり、午後の日差しに照り映えていた。 「ここですよ、ここだったんですね」  と、荒尾が叫んだ。「ぼくが、東京のぎゃるりー北丸でみた、あの野々宮先生の『阿蘇五岳』の場所は……。とすれば、北丸安国がこの馬見原を知っていた可能性は強いですね」 「ええ、彼は、十二月二十八日未明には、福岡から車を飛ばして、熊本まで来ておりますよ」  と、桂介もいった。 「そのとき彼は、若い女を同乗させていた……」 「下の駐車場が殺人現場だとすると……」  と、桂介はいう。 「まず、あそこに、まちがいないでしょう」 「二十八日にここへきた年輩の女性ですが、だれだと思いますか」 「むろん、家政婦の大森多津子ですよ。彼女はそのころ延岡に帰省しておりましたからね」 「彼女が犯人ですか」 「まだ、なんともいえませんね」  と、荒尾は深刻な目をしている。「いずれにしても、この事件は意外な結末で終わるにちがいありません」  荒尾は、輝く阿蘇の峰々を見詰めながら、沈痛な面持ちを保つ……。  五岳の左手、中岳の下の裾野には、天照大神の墓があるという伝承もある。一説には、卑弥呼こそが、この天照大神だという説もあるのだ……。  たしかに、ここ白保古峰は、聖地である。なにか強い力の存在を感じさせる霊地である。霊能力発現にとって、この地は、きわめて強い力(プサイ)を持つのだ。 (卑弥呼の住んだ都は、やはり、この馬見原にまちがいない)  と、荒尾は感じた。(その偉大な超能力は、大阿蘇を望む、この聖なる地、白保古峰において発揮されたのではないだろうか)  ——やがて、いつまでもそこに佇《たたず》む彼らを迎えに、警官がやってきた。ふたたび下に戻る。刑事と鑑識が到着し、現場が調べられていた。  重要な手掛かりになりそうなものが見付かったようだ。たとえば、駐車場の端に遺されていたタイヤ痕、その他の物証などが採取される……。  事情聴取が終わったとき、春の日はとっぷりと暮れていた……。  エピローグ   從郡至蝦夷循海岸空   行歴日本乍東乍北到   其石狩千歳二萬餘里     1  今年は例年になく雪解けの早い札幌である。まだ四月の上旬だというのに、市内の道路は五月のように乾いている。  原稿依頼に託《かこ》つけて、社を抜け出した桂介は、十時を告げる時計台の鐘を聞く。  荒尾十郎から電話があって、待ち合わせたのは、すっかり馴染みになったロックフォールという店。入って行くと、その隅の席に、『隅の老人』ならぬ荒尾十郎が待っていて、北門タイムスを広げていた。 「やあ、お仕事中なのにすみません。ぼくは、あれから、締め切りという名の悪魔に付きまとわれていましてね、一歩も外に出ずでしたが、やっと書き上がって、今、日通貨物便で送ったところです。で、やっとね、原稿地獄から解放されて、ご機嫌なのです……」  と、のびほうだいの髪を掻きあげて、目に隈《くま》を作った荒尾はいった。 「いや、構いません。国立先生もまもなくここに来ます」  と、桂介はいって、 「先生、それは何ですか」  と、荒尾がテーブルに広げているルーズリーフを覗く。 「いやね、お宅の朝刊に、今年六月から韓国直行便がでるという記事が出ていたもので……」 「ええ、千歳からソウルへ真っ直ぐ行ける便がでるらしいですね」  と、桂介はうなずく。 「で、ちょっといたずらしていたわけ……」  荒尾は屈託なくいうと、ルーズリーフを手渡す。  それには、  郡從《よ》り蝦夷《えぞ》に至るには、海岸に循《したが》いて空行し、日本《やまと》を歴《へ》て、乍《たちま》ち東し乍《たちま》ち北し、其の石狩千歳に到る。二萬餘里。  と書き記されている。 「ははッ、『魏志倭人伝』現代版ですよ」 「パロディですか」  と、桂介は笑いだす。 「パロディ精神は、ポスト・モダニズムだからね」  といいながら、荒尾は、コーヒーのお代わりを頼む。  桂介もオーダーを済ます。  荒尾は改まった顔になって、 「吉野ケ里の発掘も四月十一日で一段落したね。君の特集記事はまだ出ないのですか」 「ええ。予定が遅れて、再来週からになりました」 「それにしてもねえ」  と、目をしばたたかせながらつづける。 「野々宮画伯の事件のほうは、ぼくの思ったとおりの顛末《てんまつ》で、君には同情しますよ。彼女のことで、あなたを唆《そそのか》したのはぼくだから、ずうっと気にしていたんですよ。あやまります……」 「いや、そんな……。一時はショックを受けましたが、もう、大丈夫です」  と、彼はいった。 「それはよかった。ま、若いんだから、元気を出して……。で、彼女からは、連絡ありませんか」 「ええ」  桂介は、目を暗くしてうなずいた。 「なにせアメリカは広いからなあ。探しようがないですものね」 「酒田刑事さんの話では、外事課を通して、向こうの警察に依頼はしてあるそうですが」 「そう……」  荒尾も目を暗くしている……。 「それにしてもなあ」  と、つぶやいた。     2  ——さて、『老画家殺害および死体遺棄事件』は、彼らが�マの邪馬台国�を見付けたことで、急転直下解決したのだった。  あれから、千歳署の酒田刑事は、東京警視庁の協力を得て、参考人として家政婦の大森多津子を呼び、追及した。最初、彼女は口をつぐんでいたが、馬見原幣立神社駐車場で見付けたタイヤ跡、足跡などの証拠品を見せて問い詰めると、重い口を開いて次のように供述した。酒田刑事が、彼女に、息子を庇《かば》いすぎると、却ってまずい結果になると、説得したせいもある。 「あたくしが、昨年十二月二十八日に、帰省中の延岡から馬見原へ行きましたのは、先生からの電話で、下着類を忘れてきたので買ってきて欲しいと、二十七日に電話で頼まれたからでした。場所はそのとき伺い、翌日、用意した物を持って行って見ますと、先生がおられなかったのです。写生に行かれたのかも知れないと思いながら、タクシーを降りましたところ、足元に落ちていたネクタイピンを見付けたのでございます」 「野々宮画伯のものじゃなかったんだね」  と、酒田刑事は訊く。「息子さん、つまり大森盛児のものだったんだろ」 「はい。あたくしが、昨年の独画協会の展覧会で息子が会友賞を取った記念に、贈ったネクタイピンでした。それを見たとき、あたくしは、非常に不安になりました。息子は、ヨーロッパに行っているはずなのに、どうしてそれがここに落ちているのか理由がわからなくって」 「母親の勘で、ぴんときたものがあったんだね」 「ええ。あたくしはあの子が、恩義のある先生を裏切って、先生の贋作《がんさく》をしていることを知っておりましたし、いずれ何かよくないことがありそうな気がしていたんでした。でも、悪いのは北丸さんですわ。あの人が息子を唆したんです。ほんとうに先生はいいかたでしたのに、息子が申し訳ないことをしたと思っております」  大森多津子は、最初、大森盛児と北丸安国が共犯で野々宮画伯を殺害したのではないかと想像したのだ。  しかし、なぜ、そのとき、野々宮画伯が殺されたと直感したのだろうか。その理由は、彼女自身にあった。つまり、大森多津子は、犯罪癖のあった前夫と別れて、生活のために野々宮画伯の家に家政婦として住み込み、一つ屋根の下に暮らすうちに、画伯と男女の関係を持った。別にそれ自体は、当時、二人はすでに、それぞれ正式に前の配偶者と離婚していたのだから、不道徳な行為とはいえない。だが、そのころ、もっとも多感なティーンエイジャーであった盛児をぐれさせる原因になったらしいのだ。  また、問題は、この盛児のみならず、彼女が育てた野々宮斐美香にも生じた。父と娘は、その後、親子関係がこじれ、結局、斐美香は日本を去りアメリカへ行く……。 「つまり、根の深あーい事件だったんだなあ」  と、荒尾はいった。「人がなぜ犯罪を犯すのかという原因を突き詰めていくと、結局、心理学の問題になるね」 「というよりは、ぼくは、人間に特有の幻想する能力が、犯罪を産むんじゃないかと思いますよ。特に完全犯罪をもくろむケースではね」  たしかに、この事件は、計画された犯罪だったのである。  ともあれ、大森多津子の供述により、直ちに大森盛児が再度逮捕され、追及された。むろん最初は白を切っていたが、酒田刑事に、日本入国の証拠を突き付けられて、彼が主張するアリバイを崩されると、あっさり自白したのである。 「あの刑事さん、荒尾さんに感謝しておりましたねえ」  と、桂介はいった。「自分は海外旅行というものは一度もしたことがないので気付かなかった、と刑事さんは話しておりました。たしかに、下関から入国する方法は、ちょっとした盲点ですものね」 「さあ、盲点といえますかどうか。あれはコロンブスの卵みたいなもので、気がつけば何でもないことでしたよ」  と、荒尾は謙遜《けんそん》した。 「先生は、事件の最初から見当をつけていたんですか」  と、桂介は訊く。 「いや、単なる一仮説として、あり得ることだと、ぼくなりに想像しただけですよ」  だが、早い時点で荒尾は、ひょっとすると斐美香が犯人かもしれないぞ——と考えていたのである。  実は、二月にニューヨークへ行ったとき、向こうに住んでいる知人から、当地では今、コカインが大流行しているという話を聴いた。そして、まだ噂にすぎないが、日本にも密輸されているらしい、という。  荒尾はそのことを桂介に話し、 「日本では考えられないことですが、若い人の間にも、このコカイン汚染が始まっているんですよ。昨年、ニューヨークでは、平均一日に五件以上の殺人事件が発生したっていいますが、内二件はクラックがらみだったという……」 「先生が日本に戻ったとき、電話で話していた麻薬ですね」  と、桂介はいった。 「ええ。このクラックは高純度のコカインに脱臭剤と水を加えて固めたものでしてね。ほとんど瞬間的に効き目があらわれるっていいます」 「それにしても、先生はどうして彼女が、コカイン中毒者と思ったのですか」 「いや、ただ、そうかもしれないと想像しただけですが、理由はね、野々宮画伯が彼女に出した手紙でした。あの中にね、サガンのことが書いてあったでしょ」 「ええ、覚えています。彼女もあのとき、先生の質問に答えて、サガンを研究していると話しておりましたね」  フランスの女流作家、フランソワーズ・サガンのことである。 「ああ、そういえば、サガン女史がコカインを常用していたという話は、いつだったかの新聞にも載っておりましたね」  と、桂介はつづける。 「……かのシャーロック・ホームズ先生もコカイン中毒者ですよ」  と、荒尾はいった。「で、もしやと思ってね、ぼくはニューヨークには知り合いも多いので、彼女のことを調べて貰ったのです。というのも、全寮制の多いあちらの大学で、コカイン・パーティーが流行っているという話なんかも耳にしたもので……」  野々宮画伯が娘に出した手紙には、どうもそのことで、娘のことを心配しているらしいニュアンスがあったように、荒尾には感じられたのだ……。  しかし、返事がきたのは、彼らがようやく�マの邪馬台国�を発見した後だった。そのため、つづいて起こった二つの不幸な事件を、未然に防ぐことができなかったわけである。     3  野々宮数馬を殺害したのは、斐美香である。安原令子も彼女が殺害したのだ。 「しかしね、酒田刑事さんにはいいませんでしたが、ぼくはね、内心じゃ、最大の被害者は、彼女自身だったんじゃないかって、そんな気がしてならんのですよ」  と、荒尾はいった。 「ええ。ぼくもですよ」  桂介も、声を落としながら、うなずいた。  そこに国立登が現れた。桂介は席を移して、原稿依頼をする。用事が済むと、仕事があるのでと断り、桂介は先に席を立つ……。  国立画伯は、荒尾の席に来て、 「今、岩都君から話を聞いて驚きましたが、あの娘さんが、父親ばかりでなく、他に二人も殺したとは、わたしは未だに信じられませんなあ……」  と、いった。 「ぼくだってそうですよ。しかし、それが真相だったのです」  と、荒尾は答える。 「しかしなぜです? 父親を殺すに至った動機は、なんだったのですか」 「それはまだ、本人が逮捕されていないのではっきりしませんがね」  荒尾は答える。「大森盛児が、ヨーロッパからニューヨークに渡って彼女に会ったとき、彼は、彼女のコカイン中毒のことを知っていて、それで、彼女を脅迫し、この計画殺人に引きずり込んだものらしいのです。大森多津子の話ですと、すでに野々宮画伯は娘のコカイン中毒のことを知っており、盛児に娘を日本に連れ戻すようにと頼んだようですね。しかし、盛児は、これを逆用して、恩人である画伯の殺害をもくろんだ。ま、もし戻らないのなら、仕送りも止めてしまうと、野々宮画伯は、盛児にいわせたのではないでしょうか。それで、彼女はせっぱつまった。常人には考えられないことすら行なうのが、麻薬中毒者ですからね」 「気の毒にねえ」  と、国立画伯。「で、その方法は?」 「すべての計画は、大森盛児が考えたものでしょう。ニューヨークの警察の調べでわかったことですが、大学の寮で同室の女性が、韓国系のアメリカ人女子学生で、体付きや顔立ちなんかも、野々宮斐美香によく似ていたのです。それで、彼女は、同じコカイン中毒者のこの女子学生のパスポートを借りて、韓国経由で日本に密入国した。だから、酒田刑事が調べてもわからなかったのですね」 「彼女は、野々宮君の探していた�マの邪馬台国�が馬見原だということを知っていたんだね」 「ええ、日程もね。犯行は、十二月二十八日の午前二時から三時の間でした。彼女が先に馬見原に来ており、そこへ大森盛児を乗せて、画商の北丸が来た。実際に手を下したのは、斐美香だと盛児はいっているが、彼と二人がかりでやったのではないでしょうか」 「大森は、北丸と打ち合わせて、福岡に来ていたんだね」 「ええ。彼は大韓航空で韓国に来て、フェリーで下関から日本に入国していたわけです。犯行の後、彼が、キャンピング・カーを、馬見原→佐伯→宿毛→高知→南紀勝浦(新宮)→東京→苫小牧→千歳の経路で移動させ、ふたたび下関から韓国へ脱出したというわけです」 「すると、二十八日深夜、高速道路のガソリン・スタンド員が目撃した、同乗の若い女は、安原令子ではなくて、野々宮斐美香だったんですな」 「ええ、北丸は、彼女を福岡まで送って降ろし、その足でシンガポール・ツアーに参加したわけです」 「わざわざ千歳まで運んだ理由は?」 「北海道の深い積雪の下に隠せば発見が遅れ、その分、捜査も難しくなるだろうと計算したものでしょうね。とにかく、彼らは、アリバイ工作をより完璧にするため、犯行現場を隠し、遺体の発見場所を遠くに移す必要があったのでしょう」 「たしかに、われわれが、それで悩まされたのは事実だ。幸い、あなたの邪馬台国推理で、馬見原という意外な犯行現場が発見された……」 「ええ、多分に幸運もありましたがね」  と、荒尾は謙遜する。 「画商の北丸が計画に加わった理由は、例の贋作で、脅迫されたからですか」 「ええ。他にも、遺産の名作を彼に渡すという条件もあった。北丸は、外目には派手に見えても、内実は、金に困っていましたからね。それに、アリバイ工作が完璧だと彼には思われて、絶対ばれないと思ったからでしょうな」 「犯行による大森盛児の利益は?」 「一つは野々宮画伯に対する恨みです。理由のない逆恨みですが……。二つには、贋作のことが、薄々、画伯に感付かれていた。そうなれば、画家としては一生だめになりますからね」 「それだけですか」 「いや、結婚です。彼は、斐美香と結婚して、画伯の遺産をほしいままにしようとしていたらしい」 「なるほど、彼女には弱みがあるから断れないわけか」  と、老画家は納得して、「弟の野々宮数馬はなぜ殺されたんです」 「彼女も大森も北丸も、数馬に脅迫されたからですよ。数馬は、感付いたのではないでしょうか」 「斐美香が犯人なら、野々宮君の遺産は彼に転がり込むからですな」 「それもありますが、斐美香は、大学生のころ、父親に反抗してか、いわゆるビニ本のモデルに出ていたことがあったようです。それを、商売柄で数馬は知っていたんですな。実は、昨年暮れの野々宮画伯と彼との激しい口論もそのことであったらしい。それを、秘書の安原令子も聴き、斐美香を脅迫したらしい。ま、そのために、殺されてしまうわけですが、死体の隠しかたが杜撰《ずさん》だったために、犯人を令子に仕立てあげる彼らのもくろみは、挫折した」 「なるほどね」  老画伯は、追加したままのさめたコーヒーを飲む。 「それから、数馬は、斐美香に対して、コカインの密輸も強要したと、大森らは供述しております。日本に持ってくると、末端価格で二十五倍にはなるという話ですから」  荒尾は、言葉をつづけて、「新宮から投函されたスケッチのポストカードも、キャンピング・カーの中にあった描きかけの作品も、すべて大森盛児の行なったアリバイ工作だったそうです。他にも細かい疑問点はあると思いますが、だいたいこんなところですか……。詳しいことは、彼女が捕まらないとわかりませんね」  しばらく、二人は黙り込んでいたが、国立画伯は、思いだしたように、手にしていたスケッチブックから、雑誌の切り抜きを出して見せた。 「これは、卑弥呼が、多分、こんな貌《かお》をしていたのではないかという想像図ですが、似ていると思いませんか」  手渡されて、荒尾はしげしげと見入る。 「美人ですねえ」  弥生人、古墳人の骨格から、大体想像できるらしい。 「由紀さおりのような貌になるらしいですね」  と、画伯はいった。  面長で、顎《あご》が張り、鼻は低めになるそうだ。 「なるほど、野々宮斐美香に似てますね」  と、荒尾は認めた。     4  その夜、岩都桂介は、彼女からの電話を受けた。 「今、あたし、山の湖水に臨んだホテルに泊まっているの」 「まだ、アメリカにいるのですか」  と、咳き込みながら訊く桂介である。 「ええ、ここはロッキーよ。とっても奇麗なところ。あたし、やっと支笏湖に似た場所を見付けたわ。ずいぶん探して、ここに来たの」 「そこで、君は、死ぬつもりなんだね」 「最後に、あなたの声を聞きたかったの、あたし」 「そう、やっぱり……」  彼はいった。そのほうがいいかもしれないと思いながら……。 「冬の支笏湖に、あなたに連れて行っていただいたとき、死ぬならこういう場所でと思ったの」 「覚えているよ。そう、あのとき君は話していたね」 「ごめんなさいね、あたしは、とっても悪い女だったの。でも、京都の夜、あなたにいったことはほんとうよ。もし、人生をもう一度、やり直せたら、あたしはあなたと……。それだけをどうしてもいっておきたくって、あたし、お電話したの……」 「斐美香さんッ」 彼は、大声で彼女を呼ぶ。 が、電話は切れていた……。 桂介は放心する。彼女をまだ愛していた自分に、気付きながら……。 後書き——始度一海千餘里について  1、昨年の暮れでしたでしょうか、突然、はらっという感じでひらめきがあり、邪馬台国問題に挑戦してみようという気持になりました。二十年ほど前、日本を席巻《せつけん》した邪馬台国ブームが、また起こりそうな気がしたからです。  早速、書架から買いためておいた関係書を読みはじめて正月休みを送りました。そして、またまた、はらっという感じで、「始度一海千餘里」に気付いたわけです。  改めて、本を買い込み、なんだかんだで五十冊以上は読んだでしょうか。しかし、私の知るかぎりでは、まだだれも「始度一海」に気付いていないらしい。となると、次第に落ち着かなくなり、講談社担当の宇山さんに「邪馬台国を書くぞ」と宣言したという次第。ところが、書きはじめてまもなく、今度は吉野ケ里です。これはえらいことになったぞ。もし、親魏王卑弥呼の金印が出てきたらどうしよう、とますます落ち着けなくなりました。慌ててストーリーを一部変更、三月には吉野ケ里も見学取材。  幸か不幸か、四月十一日の新聞報道では、一応、発掘は終わったよし。金印も出なかった。これで一安心というわけですが、校正が済んだあとまた何が発見されるかわかったものではない。まったく、最近の考古学は人騒がせですね。  2、さて、巻末註に、出典参考文献を列記しましたが、他にも様々な関係文献のお世話になりました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。  また、邪馬台国問題については、アカデミスト、アマチュア入り乱れての論議が飛び交い、本当におもしろいテーマだと思いました。  ほんとうは、この先長く、親魏倭王の金印も、百枚の魏鏡も発見されないほうがいいと思いますね。そのほうが、江戸時代より今日までつづいた邪馬台国論争が、さらに二十一世紀までも楽しめると思うからです。  私は、専門研究家ではありませんので、邪馬台国問題をクイズ・ゲームと見なしました。真面目にやられておられるかたには、目障りと思いますが、すみっこのほうで、思考ゲームを楽しませてもらった次第です。しかし、「ひょっとするとひょっとして、俺の説が本当だったりして」……と思わないわけではありません。  率直にいいましょう。私のやったことは、先人たちの学説を取り入れながら、その解釈の組み替えを行なった、ということでしょうか。つまり、土器のかけら一つ発掘したことのない素人にも、邪馬台国ゲームは楽しめるということにもなりましょうか……。  ——ではなぜ、邪馬台国問題はクイズなのか。 『魏志倭人伝』は、矛盾に満ちており、現実にあわないところが特徴です。  だがしかし、もし、『倭人伝』が完全に正確な記述なら、いったいどうなるか。どこに邪馬台国を比定するのが、合理的か。ここに本作発想の原点があったわけです。  さて、専門研究家たちを悩ましつづけてきた問題点は、列記するとだいたい次のとおりです。  一、韓国南岸に比定されている狗邪韓国がなぜ、『倭人伝』では倭国北岸と書かれているのか。  二、帯方郡から狗邪韓国まで七千里とある謎。  三、最大の謎として、『倭人伝』の記載では、距離と方位が現実にぜんぜん合わない。  四、邪馬台国まで、水行十日陸行一月とあるのはなぜか。陸行一月は非現実的数字。  五、帯方郡より邪馬台国までの距離が万二千里あるというのはなぜか。  六、倭が周旋五千里とあるのはなぜか。  七、『後漢書倭伝』にはなぜ、奴国が極南界にあると書かれているのか。  八、倭国はなぜ会稽・東冶の東にあるのか。地図と不一致。  九、邪馬壹国が、なぜ後代の書では、邪馬臺国と書き直されたのか。  十、卑弥呼の鬼道とはなにか。 十一、邪馬台国よりさらに千余里海を渡った国はどこか。さらに、侏儒国、裸国、黒歯国の比定地。 十二、女王国より以北、二十一ヵ国の所在地は? 十三、日向・神武王朝のことがなぜ書かれていないのか。大倭も同じ。  ざっとこんなところでしょうか。  これらを、『倭人伝』本文に矛盾なく説明できる邪馬台国の位置が、もしあるとすれば、その場所はどこか。そういう発想から始めたが故に、ゲームなのであります。  一応とあえていいますが、本作では、大過なく説明されたと思っております。  最後になりましたが、本作で比定された卑弥呼の宮のありかは、すでに説を起てておられるかたがいるそうです。柞木田氏の著作の中にその名があり知りましたが、弥生稲作研究家で、現在は土壌浄化法の開発をされている、新見正氏といわれるかただそうです。この場を借りて、付記させていただきました。   平成元年五月吉日 著 者   註 1 川崎真治『白鳥と騎馬の王』(新国民社) 2 森浩一編『日本の古代1—倭人の登場』(中央公論社) 3 森繁弘(講談社) 4 川崎真治『「桓檀古記」とウガヤ王』歴史と現代vol.1 - 2(新国民社) 5 『倭国』(中公新書) 6 (六興出版) 7 鹿島※『「桓檀古記」は語る』歴史と現代vol.1 - 2 8 古代阿波研究会(新人物往来社) 9 『日本語とタミル語』(新潮社) 10 大谷光男『邪馬台国の卑弥呼は倭王か』歴史読本、臨時増刊号昭和52年9月(新人物往来社) 11 (六興出版) 12 前波仲尾『復原された古事記』(同書刊行会) 13 中島直幸『邪馬台国の周辺—末盧』季刊考古学第六号(雄山閣出版) 14 『日本語とタミル語』(新潮社) 15 茂在寅男『航海術』(中公新書) 16 一戸三人は、『「邪馬台国」大論争』歴史読本、昭和63年12月号の安本美典氏発言による。 17 鍛冶勇誠『古代地名の謎と邪馬台国』歴史読本、昭和51年5月号(新人物往来社) 18 (講談社現代新書) 19 『道教』(平河出版) 20 『日本語「まつり」を解く』(掲載誌10に同じ) 21 佐伯有清『卑弥呼と邪馬台国の組織』歴史読本、臨時増刊号昭和51年3月(新人物往来社) 22 原田大六(六興出版) 23 森浩一編『日本の古代1—倭人の登場』(中央公論社) 24 (小学館) 25 『耶馬台国方位考』(史学雑誌38—10) 26 『誰も言わなかった古代史の話』(新人物往来社) 27 『高天原の謎』(講談社現代新書) 28 森浩一篇『日本の古代2—列島の地域文化』(中央公論社) 29 『えとのす』22号(新日本教育図書) 30 『南阿蘇にのこる太古ユダヤの秘宝』歴史読本、昭和53年9月号(新人物往来社) 本作品は、一九八九年七月、『「マ」の邪馬台国殺紀行』の題で刊行された講談社ノベルス版を改題し、一部加筆修正したものです。